わからぬお返辞を申し上げたりすることになってはならないと御遠慮がされる」
と言い、中の君は気の進まぬふうであったが、御好意に対してそれではと女房らに諫《いさ》められて、中の襖子の口の所で物越しの対談をすることにした。気品よく艶で、今度はまた以前よりもひときわまさったと女房たちの目も驚くほど美しさがあって、だれにもない清楚《せいそ》な身のとりなしの備わっている薫は、これ以上の男がこの世にはあるまいと見えた。中の君はこの人に亡《な》き姉君のことをさえまた恋しく思われ、身に沁《し》んで薫を見ていた。
「取り返しがたい方のことも、今日は縁起を祝わねばなりませんからお話をさし控えたほうがよろしいでしょう」
と中納言は言い、ややしばらくして、また、
「今度おいでになるお邸《やしき》の近い所へ、私の家もまたすぐに移転することになっていますから、夜中でも暁でもと能弁家がよく言いますように、何事がありましても私へ御用をお言いくださいましたなら、生きておりますうちはどんなにもしてあなた様のために尽くそうと私は思っているのですが、あなたはどう思ってくださいますか、御迷惑にはお感じになりませんか。出すぎたお世話はいけないかもしれぬのですから、自分の考えをよいこととばかり信じても行なえませんから、お尋ねするのです」
こう言うと、
「この家を永久に離れたくないように思われます私は、近くへ来るなどとおっしゃるのを承っていますだけでも心が乱れまして、何とお返辞を申し上げてよろしいかもわかりません」
所々は言おうとする言葉も消して、非常に物悲しく思っている様子の見えるところなどもよく大姫君に似ているのを知って、自身の心からこの人を他へやることになったとくちおしく思われてならぬ薫であったが、効《かい》のないことであったから、あの以前のある夜のことなどは話題にせず、そんなことは忘れてしまったのかと思われるほど平静なふうを見せていた。近い庭の紅梅の色も香もすぐれた木は、鶯《うぐいす》も見すごしがたいように啼《な》いて通るのは、まして「月やあらぬ春や昔の春ならぬ」という歎きをしている人たちの心を打つことであろうと思われた。さっと御簾《みす》を透かして吹く風に、花の香と客の貴人のにおいの混じって立つのも花橘《はなたちばな》ではないが昔恋しい心を誘った。つれづれな生活の慰めにも人生の悲しみを紛らわすためにも、紅梅の花は姉君の愛したものであったと思うことが心からあふれて、
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見る人もあらしにまよふ山里に昔覚ゆる花の香ぞする
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と言うともなくほのかに絶え絶えに言うのを、薫はなつかしそうに自身の口にのせてから、
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袖《そで》ふれし梅は変はらぬにほひにてねごめうつろふ宿やことなる
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と自作を告げた。絶えない涙をぬぐい隠して、あまり多くは言わぬ薫であった。
「またこんなふうにして何のお話も申し上げようと思います」
と最後に言って立って行った。
薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の留守居《るすい》にあの髭男《ひげおとこ》の侍などが残るであろうことを思って、ここに近い領地の支配をする者を呼び寄せて、今後もここへそれらの人の生活に不足せぬほどの物を届けさせる用も命じた。
弁は中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるようにと言って、尼になっていた。そして引きこもっていた部屋《へや》から薫はしいて呼び出して、哀れに変わった面影のその人を見た。いつものように大姫君の話を薫はして、
「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」
など皆も言うことができず泣いてしまった。
「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと女王《にょおう》様も恨めしゅうございまして、人生に対して片意地になっておりますのも罪の深いことと思われましてね」
と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。非常に年は取っているが、昔の日に美しかった名残《なごり》の髪を切り捨て後ろ梳《ず》きの尼額になったために、かえって少し若く見え雅味があるようにも思われた。故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して御仏《みほとけ》に仕え、ますますこまやかな交情を作っていきたかった、とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、身体《からだ》を隠すようにしている几帳《きちょう》を少し横へ引きやって、親しみ深くいろいろな話をした。見た所はぼけたようではあるが、ものを言う気配《けはい》などに洗練された跡が見え、美しい若い日を持っていたことが想像される。
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さきに立つ涙の川に身を投げば人におくれぬ命ならまし
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悲しそうな表情で弁の尼は言った。
「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い中有《ちゅうう》に長くいなければならなくなるのもつまりませんよ、いっさい空《くう》とあきらめるのがいちばんいいのですよ」
とも薫は教えた。
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「身を投げん涙の川に沈みても恋しき瀬々に忘れしもせじ
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どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」
と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。
帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。
源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、
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人は皆いそぎ立つめる袖のうらに一人もしほをたるるあまかな
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と中の君へ訴えた。
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「しほたるるあまの衣に異なれやうきたる波に濡《ぬ》るる我が袖
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世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに逢《あ》うこともできますが、しばらくでも別れ別れになって、寂しいあなたの残るのを捨てていくかと思うと、私の進まない心はいっそう進まなくなります。あなたのような姿になった人だっても、絶対に人づきあいをしないものではないようなのですからね、そうした人と同じ気持ちになって、時々は私の所へも来てください」
などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。
「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」
こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。
山荘の中はきれいに片づき、荷物はできて、中の君の乗用車、その他の車が廊に寄せられた。前駆を勤める人の中に四位や五位が多かった。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮御自身でも非常に迎えにおいでになりたかったのであるが、たいそうになってはかえって悪いであろうと、微行の形で新婦をお迎えになることを計らわれたのであって、心配には思召《おぼしめ》された。源中納言のほうからも前駆を多人数よこしてあった。だいたいのことだけは兵部卿の宮が手落ちなくお計りになったのであるが、こまごまとした入り用の物、費用などは皆|薫《かおる》が贈ったのであった。
出立が早くできないでは日が暮れると女房らも言い、迎えの人たちも促すために、中の君はあわただしくて、今から行く所がどんな所かと思うことで不安な落ち着かぬ悲しい気持ちを抱きながら車上の人になった。大輔《たゆう》という女房が、
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ありふればうれしき瀬にも逢《あ》ひけるを身を宇治川に投げてましかば
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と言って、笑顔《えがお》をしているのを見ては、弁の尼の心境とはあまりにも相違したものであると中の君はうとましく思った。もう一人の女房、
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過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はた先《ま》づも行く心かな
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この二人はどちらも長くいた年寄りの女房で、皆大姫君付きになるのを希望した者であったが、利己的に主人を変えて、今日は縁起のよいことより言ってはならぬと言葉を慎んでいるのもいやな世の中であると思う中の君はものも言われなかった。道の長くてけわしい山路であるのをはじめて知り、恨めしくばかり思った宮の通い路の途絶えも無理のない点もあるように思うことができた。白く出た七日の月の霞《かす》んだのを見て、遠い路《みち》に馴《な》れぬ女王《にょおう》は苦しさに歎息《たんそく》しながら、
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ながむれば山より出《い》でて行く月も世に住みわびて山にこそ入れ
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と口ずさまれるのであった。変わった境遇へこうして移って行ってそのあとはどうなるであろうとばかり危《あや》ぶまれる思いに比べてみれば、今までのことは煩悶《はんもん》の数のうちでもなかったように思われ、昨日《きのう》の世に帰りたくも思われた。
十時少し過ぎごろに二条の院へ着いた。まぶしい見も知らぬ宮殿の幾つともなく棟《むね》の別れた中門の中へ車は引き入れられ、そのころもう時を計って宮は待っておいでになったのであったから、車の所へ御自身でお寄りになり、夫人をお抱きおろしになった。夫人の居間の装飾の輝くばかりであったことは言うまでもないが、女房の部屋部屋にまで宮の御注意の行き届いた跡が見え、理想的な新婦の住居《すまい》が中の君を待っていたのである。
宮がどの程度に愛しておいでになるのか、妾《しょう》としてか、情人としての御待遇があるかと世間で見ていた八の宮の姫君はこうしてにわかに兵部卿親王の夫人に定まってしまったのを見て、深くお愛しになっているに違いないと世間も中の君をりっぱな女性として認め、かつ驚いた。
源中納言はこの二十日ごろに三条の宮へ移ることにしたいと思い、このごろは毎日そこへ来ていろいろな指図《さしず》をしていたのであるが、二条の院に近接した所であったから、中の君の着く夜の気配《けはい》をよそながら知りたく思い、その日は夜がふけるまで、まだ人の住まぬ新築したばかりの家にとどまっているうちに、迎えに出した前駆の人たちが帰って来て、いろいろ報告した。兵部卿の宮が御満足なふうで新婦を御大切にお扱いになる御様子であるということを聞く薫は、うれしい気のする一方ではさすがに、自身の心からではあったが得べき人を他へ行かせてしまったことの後悔が苦しいほど胸につのってきて、取り返し得ることはできぬものであろうかと、こんなうめきに似た独言《ひとりごと》も口から出た。
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しなてるやにほの湖に漕《こ》ぐ船の真帆《まほ》ならねども相見しものを
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とあの夜のことでちょっと悪く言ってみたい気もした。
左大臣は六の君を兵部卿の宮に
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