る春がとどまっているようなのである。若宮が、
「私の桜がとうとう咲いた。いつまでも散らしたくないな。木のまわりに几帳《きちょう》を立てて、切れを垂《た》れておいたら風も寄って来ないだろうと思う」
たいした発明をされたようにこう言っておいでになる顔のお美しさに院も微笑をあそばした。
「覆《おお》うばかりの袖《そで》がほしいと歌った人よりも宮の考えのほうが合理的だね」
などとお言いになって、この宮だけを相手にして院は暮らしておいでになるのであった。
「あなたと仲よくしていることも、もう長くはないのですよ。私の命はまだあっても、絶対にお逢いすることができなくなるのです」
とまた院は涙ぐんでお言いになるのを、宮は悲しくお思いになって、
「お祖母《ばあ》様のおっしゃったことと同じことをなぜおっしゃるの、不吉ですよ、お祖父《じい》様」
と言って、顔を下に伏せて御自身の袖などを手で引き出したりして涙を宮はお隠しになっていた。欄干の隅《すみ》の所へ院はおよりかかりになって、庭をも御簾《みす》の中をもながめておいでになった。女房の中にはまだ喪服を着ているのがあった。普通の服を着ているのも、皆|派手《はで》な色彩を避けていた。院御自身の直衣《のうし》も色は普通のものであるが、わざとじみな無地なのを着けておいでになるのであった。座敷の中の装飾なども簡素になっていて目に寂しい。
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今はとて荒《あら》しやはてん亡《な》き人の心とどめし春の垣根《かきね》を
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とお歌いになる院は真心からお悲しそうであった。
徒然《とぜん》さに院は入道の宮の御殿へおいでになった。若宮も人に抱かれて従っておいでになって、こちらの若宮といっしょに走りまわってお遊びになるのであった。花の木をおいたわりになる責任もお忘れになるくらいにおふざけになった。
尼宮は仏前で経を読んでおいでになった。たいした信仰によっておはいりになった道でもなかったが、人生になんらの不安もお感じになるものもなくて、余裕のある御身分であるために、専心に仏勤めがおできになり、その他のことにいっさい無関心でおいでになる御様子の見えるのを院はうらやましく思召した。こうした浅い動機で仏の御|弟子《でし》になられた方にも劣る自分であると残念にお思いになるのである。閼伽棚《あかだな》に置かれた花に夕日が照って美しいのを御覧になって、
「春の好きだった人の亡くなってからは、庭の花も情けなくばかり見えるのですが、こうした仏にお供えしてある花には好意が持たれますよ」
とお言いになった院は、また、
「対の前の山吹《やまぶき》はほかでは見られない山吹ですよ、花の房《ふさ》などがずいぶん大きいのですよ。品よく咲こうなどとは思っていない花と見えますが、にぎやかな派手《はで》なほうではすぐれたものですね。植えた人がいない春だとも知らずに例年よりもまたきれいに咲いているのが哀れに思われます」
と仰せられた。宮はお返辞に、
「谷には春も」(光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散るもの思《も》ひもなし)
とお言いになるのであった。言うこともほかにありそうなものを自分の悲しみを嘲笑《ちょうしょう》するにあたるようなことをお言いになるとはと院は心に思召《おぼしめ》しながらも、紫の女王はこうした思いやりのないことを言い出すこともすることも最後まで絶対にない女性であったと、少女時代からの故夫人のことを追想してごらんになると、その時はこう、あの時はこうと、才気と貴女らしい匂《にお》いの多かった性格、容姿、言った言葉などばかりがお思われになって、涙のこぼれてきたのを院はお恥じになった。
夕方の霞《かすみ》が物をおぼろに見せる美しい時間であったから、院はそこからすぐ明石《あかし》夫人の住居《すまい》をお訪《たず》ねになった。久しくおいでがなかったのであるから突然なことに夫人は驚いたのであったが、すぐに感じよく席を設けてお迎えするようなところに、この人のだれよりも怜悧《れいり》な性質は見えるものの、また故人はこうでもない高雅な上品さがあったと思い比べられては、その幻ばかりが追われるようにおなりになって、悲しみがさらにまさってくるのを、院は御自身ながらどうすれば慰む心であろうと苦しく思召した。こちらでは落ち着いて昔の話などを院はしておいでになった。
「人をあまりに愛することは結果のよくないものだと、私は昔から知っていたし、またそのほかのことにも執着心がこの世に残らぬようにと心がけていて、一時逆境に置かれたころなどは、いろいろな理想もこの世に持ったと言っても、それは実現性のないことにきめて、どんな野山の果てで自分の命を果たしてしまっても惜しいものもないとだけは思えたものだが、年がいって死期が
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