近づくころになって、いろいろな係累をふやすことになったために、今まで出家も遂げることができないでいるのが自分で歯がゆくてならない」
などと院はお言いになって、夫人と死別したばかりの悲しみでないように言っておいでになるが、明石の心には院の御内心は何によって苦しんでおいでになるかはよくわかっていて、道理なことであるとおいたわしく思った。
「他人から見まして、この世に未練の残るわけもないような人も、その人自身には捨てられない絆《ほだし》が幾つもあるものなのでございますから、ましてあなた様などがどうしてそう楽々と遁世《とんせい》の道をおとりになることがおできになれましょう。深い考えもなく出家をいたす者はあとで見苦しいことも起こして、かえってそうならねばよかったように世間から申されることもあるものでございますから、道におはいりになりますことをお急ぎにならずにおいでになりますのが、あとでごりっぱな悟りをお得《え》になる過程になるかと存ぜられます。昔の例を承りましても、突然心の傷つけられますような悲しみにあいますとか、大きな失望をいたしましたとか申すような時に厭世《えんせい》的になって出家をいたすと申すことはあまりほめられないことになっているではございませんか。もうしばらく御|発心《ほっしん》をお延ばしになりまして、宮様がたも大人におなりになり御不安なことなどはいっさいないころまで、このままで御家族に動揺をお与えあそばさないようにしていただけましたらうれしかろうと存じます」
などとまじめに言っている明石に院は好感をお持ちになることができた。
「そんなになるまで待っていることが思慮深いのだったら、それよりもあさはかなほうがましなようだね」
などとお言いになって、昔から悲しいことに多くあっておいでになった話もあそばされた。
「昔、中宮がお崩《かく》れになった春には、桜が咲いたのを見ても、『野べの桜し心あらば』(深草の野べの桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け)と思われたものですよ。それはごりっぱな方であることが小さいころから心にしみ込んでいたために、お崩れになった時にも私がだれよりもすぐれて悲しかったのです。恋愛の深さ浅さと故人を惜しむ情とは別なものだと思う。長く同棲《どうせい》した妻に別れて、病的にまで悲しんで、その人が忘れられないのも恋愛の点ばかりでそうなのではありませんよ。少女時代から自分が育て上げてきた人といっしょに年をとってしまった今になって、一人だけが残されて一方が亡《な》くなってしまったということが、みずから憐《あわれ》まれもし、故人を悲しまれもして、その時あの時と、あの人の感情の美しさの現われた時とかあの人の芸術とか複雑にいろいろなことが思わせられるために、深い哀愁に落ちていくのです」
などと、夜がふけるまで、昔をも今をも話しておいでになって、このまま明石夫人のところで泊まっていってもよい夜であるがとはお思いになりながら院のお帰りになるのを見て、明石夫人は一抹《いちまつ》の物足りなさを感じたに違いない。院も御自身のことではあるが、怪しく変わってしまった心であるとお思いになった。
お帰りになるとまた仏勤めをあそばして夜中ごろに昼のお居間で仮臥《かりぶし》のようにしてお寝《やす》みになった。
翌朝早く院は明石《あかし》夫人へ手紙をお書きになった。
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泣く泣くも帰りにしかな仮の世はいづくもつひのとこよならぬに
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という歌であった。昨夜《ゆうべ》の院のお仕打ちは恨めしかったのであるが、こんなふうに別人であるように悲しみに疲れておいでになる御様子を思っては自身のことはさしおいて明石は涙ぐまれるのであった。
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かりがゐし苗代水の絶えしよりうつりし花の影をだに見ず
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いつも変わらぬ明石の返歌の美しい字を御覧になっても、この人を無礼な闖入者《ちんにゅうしゃ》のように初めは思っていた女王が、近年になって互いに友情を持ち合うようになり、自尊心を傷つけない程度の交わりをしていたのであるが、明石はそれとも気がつかなかったであろうなどとも院は来し方のことを思っておいでになった。お寂しくてならぬ時にだけは明石夫人のその場合のような簡単な訪問を夫人たちの所へあそばされる院でおありになった。妻妾《さいしょう》と夜を共にあそばすようなことはどこでもないのである。
夏の更衣《ころもがえ》に花散里《はなちるさと》夫人からお召し物が奉られた。
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夏ごろもたちかへてける今日ばかり古き思ひもすすみやはする
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この歌が添えられてあった。お返事、
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羽衣のうすきにかはる今日よりは空蝉《
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