うつせみ》の世ぞいとど悲しき
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 賀茂《かも》祭りの日につれづれで、
「今日は祭りの行列を見に出ようと思って世間ではだれも興奮をしているだろう」
 こんなことをお言いになって、賀茂の社前の光景を目に描いておいでになった。
「女房たちは皆寂しいだろう、実家のほうへ行って、そこから見物に出ればいい」
 などとも言っておいでになった。中将の君が東の座敷でうたた寝しているそばへ院が寄ってお行きになると、美しい小柄な中将の君は起き上がった。赤くなっている顔を恥じて隠しているが、少し癖づいてふくれた髪の横に見えるのがはなやかに見えた。紅の黄がちな色の袴《はかま》をはき、単衣《ひとえ》も萱草《かんぞう》色を着て、濃い鈍《にび》色に黒を重ねた喪服に、裳《も》や唐衣《からぎぬ》も脱いでいたのを、中将はにわかに上へ引き掛けたりしていた。葵《あおい》の横に置かれてあったのを院は手にお取りになって、
「何という草だったかね。名も忘れてしまったよ」
 とお言いになると、

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さもこそは寄るべの水に水草《みぐさ》ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる
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 と恥じらいながら中将は言った。そうであったと哀れにお思いになって、

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おほかたは思ひ捨ててし世なれどもあふひはなほやつみおかすべき
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 こんなこともお言いになり、なおこの人にだけは聖《ひじり》の心持ちにもなれず、行為もお見せになることはおできにならないのであった。
 五月雨《さみだれ》の薄暗い世界の中では物思いを続けておいでになるばかりの院は、寂しかったが十幾日かの月がふと雲間から現われた珍しい夜に大将が御前に来ていた。花|橘《たちばな》の木が月の光のもとにあざやかに立って薫《かお》りも風に付いておりおりはいってきた。「千世をならせる」というこれと深い関係の杜鵑《ほととぎす》が啼《な》けばよいと待っているうちに、にわかに雲が湧《わ》き出してきて、はげしく雨の降るのに添って吹き出した風のために、燈籠《とうろう》の灯《ひ》も消えそうになって、空の暗さが深く思われる時に「蕭蕭暗雨打窓声《せうせうあんうまどをうつこゑ》」などと、珍しい詩ではないが院のお歌いになる美声をお聞きすると、恋を解する女に聞かしむべきものであると惜しまれた。
「独身生活というものは、私一人が経験しているものでもないが、怪しいほど寂しいものだ。山へはいってしまう前にこうして習慣をつけておくことは非常によいことだと思う」
 などと院はお言いになって、
「女房たち、ここへ菓子でも出すがよい。男たちに命じるほどのことでもないから」
 などとも気をつけておいでになった。夕霧は空をおながめになる院の寂しい御表情を見ていて、こんなふうにいつまでもいつまでも故人を悲しんでおいでになっては、出家をされても透徹した信仰におはいりになることはむずかしくはないかと思っていた。ほのかな隙見《すきみ》をしただけの面影すら忘られないのであるからまして院が女王のためのお悲しみの深さは道理至極であると言わねばならぬと同情も申していた。
「昨日か今日のことのように思っておりますうちに御一周忌にももう近づいてまいります。御法事はどんなふうにあそばすおつもりでございますか」
 と大将が言うと、
「何も普通と違ったことをしようと思っていない。女王が作らせたままになっている極楽の曼陀羅《まんだら》をその節に供養すればいいことと思う。書いておいた経もたくさんあるはずなのだが、某僧都は故人からどうするかをよく聞いてあるようだから、それに加えてすることも皆僧都の意見によることにしようと思う」
 と院は仰せられた。
「御自身の御法要についてのことまでもお仕度《したく》をあそばしておかれましたことは、お考え深いことでしたが、お二方の上で申しますと、この世での御縁は短かったのですから、せめて形見になる人をお残しくだすったらと存じますと残念でございます」
「しかし子は早く死なずに現存している妻のほうにも少なかったのだからね。私自身が子は少なくしか持てない宿命だったのだろう。あなたによって子孫を広げてもらえばいい」
 などと院はお言いになるのであって、何につけても忍びがたい悲しみの外へ誘い出されることをお恐れになり、故人のこともあまりお話しにならぬうちに、「いにしへのこと語らへば時鳥《ほととぎす》いかに知りてか古声《ふるごゑ》に啼《な》く」と言いたいような杜鵑《ほととぎす》が啼いた。待たれていた声なのであるが、

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亡《な》き人を忍ぶる宵《よひ》の村雨《むらさめ》に濡《ぬ》れてや来つる山ほととぎす
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 前よりもいっそう悲しいまなざしで空
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