機嫌《きげん》が直ってゆくのを、哀れに思いながらも、大将の心は一条の宮へ飛んでいた。あちらも意志の強いばかりの女性とはお見えにならぬが、やはり自分との結婚を肯定することはできずに、尼にでもなっておしまいになれば、自分の不名誉であると思うと、当分は毎夜あちらに行っていねばならぬとあわただしい気がして、日の暮れていく空をながめても、まだ今日でさえお返事をくださらないではないかと煩悶《はんもん》された。昨日から今日へかけて何一つ食べなかった夫人が夕食をとったりしていた。
「昔から私はあなたのために、どれほどの苦労をしたことだろう。大臣が冷酷な処置をおとりになったから、失恋男とだれにも言われるのを我慢して、あちこちからある縁談を皆断わって、すべて棄権をしてしまっていたようなことは女だってそうはできないことだと皆言いましたよ。どうしてそんなにしていられただろうと、自分ながら若い時の自重心を認めないではいられないのですからね。今のあなたは私をあくまで憎んでいても、愛すべき人たちが家の中いっぱいにいるのだから、あなた一人の問題ではなくなったような現在に、軽々しい挙動はできないではありませんか。よく見ていてください。どんなに変わらぬ愛を持っている私であるかを、長い将来に見てください。命だけではあなたとさえ引き離されることがあるでしょうがね」
 こんな話になって大将は泣き出した。夫人も昔のことを思い出すと、あんなにもして周囲に打ち勝って育ててきた恋から夫婦になっている自分たちではないかと、さすがに宿縁の深さも思われるのであった。畳み目の消えた衣服を脱《ぬ》ぎ捨てて、ことにきれいなのを幾つも重ね、薫香《たきもの》で袖《そで》を燻《くす》べることもして、化粧もよくした良人が出かけて行く姿を、灯《ひ》の明りで見ていると涙が流れてきた。夕霧の脱いだ単衣《ひとえ》の袖を、夫人は自分の座のほうへ引き寄せて、

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「馴《な》るる身を恨みんよりは松島のあまの衣にたちやかへまし
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 どうしてもこのままでは辛抱《しんぼう》ができない」
 と独言《ひとりごと》するのに夕霧は気づくと、出かける足をとめて、
「ほんとうに困った心ですね。

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松島のあまの濡衣《ぬれぎぬ》馴《な》れぬとて脱ぎ変へつてふ名を立ためやは」
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