源氏物語
鈴虫
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|白檀《びゃくだん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]すずむしは釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》のおん弟子《でし》の君
[#地から3字上げ]のためにと秋を浄《きよ》むる   (晶子)

 夏の蓮《はす》の花の盛りに、でき上がった入道の姫宮の御持仏の供養が催されることになった。御念誦堂《ごねんじゅどう》のいっさいの装飾と備え付けの道具は六条院のお志で寄進されてあった。柱にかける幡《ばん》なども特別にお選びになった支那錦《しなにしき》で作られてあった。紫夫人の手もとで調製された花机《かき》の被《おお》いは鹿《か》の子《こ》染めを用いたものであるが、色も図柄も雅味に富んでいた。帳台の四方の帷《とばり》を皆上げて、後ろのほうに法華経《ほけきょう》の曼陀羅《まんだら》を掛け、銀の華瓶《かへい》に高く立華《りっか》をあざやかに挿《さ》して供えてあった。仏前の名香《みょうこう》には支那の百歩香《ひゃくぶこう》がたかれてある。阿弥陀《あみだ》仏と脇士《わきし》の菩薩《ぼさつ》が皆|白檀《びゃくだん》で精巧な彫り物に現わされておいでになった。閼伽《あか》の具はことに小さく作られてあって、白玉《はくぎょく》と青玉《せいぎょく》で蓮の花の形にした幾つかの小|香炉《こうろ》には蜂蜜《はちみつ》の甘い香を退《の》けた荷葉香《かようこう》が燻《く》べられてある。経巻は六道を行く亡者《もうじゃ》のために六部お書かせになったのである。宮の持経は六条院がお手ずからお書きになったものである。これを御仏《みほとけ》への結縁としてせめて愛する者二人が永久に導かれたい希望が御|願文《がんもん》に述べられてあった。朝夕に読誦《どくじゅ》される阿弥陀経は支那の紙ではもろくていかがかと思召《おぼしめ》され、紙屋《かんや》川の人をお呼び寄せになり特にお漉《す》かせになった紙へ、この春ごろから熱心に書いておいでになったこの経巻は、片端を遠く見てさえ目がくらむ気のされるものであった。罫《けい》に引いた黄金の筋よりも墨の跡がはるかに輝いていた。軸、表紙、箱に用いられた好みの優雅さはことさらにいうまでもない。この巻き物は特に沈《じん》の木の華足《げそく》の机《つくえ》に置いて、仏像を安置した帳台の中に飾ってあった。堂の準備ができて講師が座に着き行香《ぎょうこう》をする若い殿上人などが皆そろった時に、院もその仏間のほうへおいでになろうとして、尼宮の西の庇《ひさし》のお座敷へまずはいって御覧になると、狭い気のするこの仮のお居間の中に、暑いほどにも着飾った女房が五、六十人集まっていた。童女などは北側の室《へや》の外の縁にまで出ているのである。火入れがたくさん出されてあって、薫香《たきもの》をけむいほど女房たちが煽《あお》ぎ散らしているそばへ院はお寄りになって、
「空《そら》だきというものは、どこで焚《た》いているかわからないほうが感じのいいものだよ。富士の山頂よりももっとひどく煙の立っているのなどはよろしくない。説教の間は物音をさせずに静かに細かく話を聞かなければならないものだから、無遠慮に衣擦《きぬず》れや起《た》ち居の音はなるべくたてぬようにするがいい」
 などと、例の軽率な若い女房などをお教えになった。宮は人気《ひとげ》に押されておしまいになり、小さいお美しい姿をうつ伏せにしておいでになる。
「若君をここへ置かずに、どちらか遠い部屋《へや》へ抱いて行くがよい」
 とまた院は女房へ注意をあそばされた。北側の座敷との間も今日は襖子《からかみ》がはずされて御簾《みす》仕切りにしてあったが、そちらの室《へや》へ女房たちを皆お入れになって、院は尼宮に今日の儀式についての心得をお教えになるのであったが、その方を可憐《かれん》にばかりお思われになった。昔の鴛鴦《えんおう》の夢の跡の仏の御座《みざ》になっている帳台が御簾越しにながめられるのも院を物悲しくおさせすることであった。
「こんな儀式をあなたのためにさせる日があろうなどとは予想もしなかったことですよ。これはこれとして来世の蓮《はす》の花の上では睦《むつ》まじく暮らそうと期していてください」
 と言って院はお泣きになった。

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蓮葉《はちすば》を同じうてなと契りおきて露の分かるる今日《けふ》ぞ悲しき
[#ここで字下げ終わり]

 硯《すずり》に筆をぬらして、香染めの宮の扇へお書きになった。宮が横へ、

[#ここから2字下げ]
隔てなく蓮《はちす》の宿をちぎりても君が
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