心やすまじとすらん
[#ここで字下げ終わり]
こうお書きになると、
「そんなに私が信用していただけないのだろうか」
笑いながら院は言っておいでになるのであるが身にしむものがある御様子であった。
例のことであるが親王がたも多く参会された。六条院の夫人たちから仏前へささげられた物の数も多かった。七僧の法服とか、この法事についての重だった布施は皆紫夫人が調製させたものである。綾地《あやじ》の法服で、袈裟《けさ》の縫い目までが並み並みの物でないことを言って当時の僧がほめたそうである。こんなこともむずかしいものらしい。
講師が宮の御|遁世《とんせい》を讃美《さんび》して、この世におけるすぐれた栄華をなお盛りの日にお捨てになり、永久の縁を仏にお結びになったということを、豊かな学才のある僧が美辞麗句をもって言い続けるのに感動して萎《しお》たれる人が多かった。今日のはただ御念誦堂《ごねんじゅどう》開きとしてお催しになった法会《ほうえ》であったが、宮中からも御寺《みてら》の法皇からもお使いがあって、御誦経の布施などが下されてにわかに派手《はで》なものになった。初めの設けは簡単にしたように院は思召《おぼしめ》しても、それは決して並み並みの物でなかった上、宮廷の御寄進が添ったので、出席した僧たちは、置き所もない布施を得て寺へ帰った。
御出家をあそばされた今になって宮を院がごたいせつにあそばすことは非常で、無限の御愛情が運ばれていると見えた。御寺の帝《みかど》は宮へ御分配になった邸宅へ今はもうお移りになるほうが世間体もよいとお勧めになるのであったが、六条院は、
「遠くなっては始終お目にかかることもできないので困ります。毎日お逢いしてお話ができたり、あなたの用を聞いたりすることができなくなっては、私の期していたことが皆|画餠《がべい》になってしまう。そういっても私に残された命はもう何ほどでもないのでしょうが、生きている間はせめてその志だけでも尽くさせてください」
とお言いになって賛成をあそばさないのである。院はまたそのほうの邸宅もきれいに修繕させてお置きになって、宮が官から給されておいでになる収入や、御私有の荘園や牧から上がって来る物の中でも、貯蔵しておく価値のある物は皆その三条の宮の倉庫《くら》へ納めさせてお置きになった。新しい倉庫の建て増しまでおさせになって、それへは法皇がこの宮へ無数に御分配になった貴重品の今まで六条院にあったのを移してお蔵《しま》わせになった。これは永久に宮の御家を経済的に保証する価値ある財産というべきものである。そして六条院における宮の御生活とおおぜいの女房、男女の召使に要する費用は院の御負担とお決めになったのである。
秋になって院は尼宮のお住居《すまい》の西の渡殿《わたどの》の前の中の塀《へい》から東の庭を草原にお作らせになった。閼伽棚《あかだな》などをそのほうへお作らせになったのが優美に見える。宮の御出家のお供をして乳母《めのと》そのほかの老いた女たちは必然的に尼になったが、若盛りの人でも、他日動揺する恐れのない、信念の堅そうな人たちだけを御弟子にされることになり、われもわれもと希望する者の多いのを、院がお聞きになって、
「群衆心理で今はその気になっているでしょうが、それをお許しになってはいけませんよ。不純な者が少しでも混じっていては他の者の迷惑になりますよ」
と御忠告になり、全部の中から十幾人だけが尼姿で侍することになった。今度の草原に院は虫をお放ちになって、夕風が少し涼しくなるころに宮の所へおいでになり、虫の音《ね》を愛しておいでになるふうでしきりに宮を誘惑しようとしておいでになった。今さらそうした行ないはあるまじいことであると、宮はただ恐ろしがっておいでになった。人目には以前と変わらぬようにあそばしながら、あの秘密をお知りになってからは、汚れたものとして嫌悪《けんお》をお続けになった自分の肉体を悲しむ心が出家のおもな動機になり、尼になった時からはいっさいの愛欲を忘れることができて、静かな平和な心を楽しんでいる自分に、またこうしたことを求められるのは苦しいことであると宮はお思いになり、六条院でない所へ住み移りたくおなりになるのであったが、これをはきはきと言っておしまいになることもできぬ弱い御性質であった。
十五夜の月がまだ上がらない夕方に、宮が仏間の縁に近い所で念誦《ねんじゅ》をしておいでになると、外では若い尼たち二、三人が花をお供えする用意をしていて、閼伽《あか》の器具を扱う音と水の音とをたてていた。青春の夢とこれとはあまりに離れ過ぎたことと見えて哀れな時に、院がおいでになった。
「むやみに虫が鳴きますね」
こう言いながら座敷へおはいりになった院は御自身でも微音に阿弥陀《あみだ》の大誦《だいじゅ
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