な風の身にしむように吹き込んでくるのにお誘われになって、宮は十三絃をほのかにお掻《か》き鳴らしになるのであった。この情趣に大将の心はいっそう惹《ひ》かれて、より多くを望む思いから、琵琶《びわ》を借りて想夫恋《そうふれん》を弾き出した。
「自信のあるものらしく見えますのが恥ずかしゅうございますが、この曲だけはごいっしょにあそばしてくだすってよい理由のあるものですから」
 と大将は御簾《みす》の奥へ合奏をお勧めするのであるが、他のものよりも多く羞恥《しゅうち》の感ぜられる曲に宮はお手を出そうとあそばさない。ただ琵琶の音に深く身にしむ思いを覚えてだけおいでになる宮へ、

[#ここから2字下げ]
ことに出《い》で言はぬを言ふにまさるとは人に恥ぢたる気色《けしき》とぞ見る
[#ここで字下げ終わり]

 と大将が言った時、宮はただ想夫恋の末のほうだけを合わせてお弾きになった。

[#ここから2字下げ]
深き夜の哀ればかりは聞きわけどことよりほかにえやは言ひける
[#ここで字下げ終わり]

 ともお言いになるのであった。非常におもしろいお爪音《つまおと》であって、おおまかな音《ね》の楽器ではあるが、芸の洗練された名手が熱心にお弾《ひ》きになるのであるから、すごい気分のような透徹した音を、美しく少しだけお聞かせになっておやめになったのを、大将は恨めしいまでに飽き足らず思うのであるが、
「風流狂じみましたことをいろいろお目にかけてしまいました。秋の夜を無限におじゃまいたしておりましては故人からとがめられる気もいたしますから、もうお暇《いとま》をいたしましょう。また別の日に新しい気持ちで御訪問をいたします。この楽器をこのままにしてお待ちくださるでしょうか。意外なことが起こらないともかぎらない人生のことですから不安なのです」
 などと言って、正面から恋を告げようとはしないのであるが、におわせるほどには言葉に盛って大将は帰ろうとした。
「今夜の御風流は非難いたす者もございませんでしょう。昔の日の話をお補いくださいます程度にしかお聞かせくださいませんでしたのが残り多く思われてなりません」
 と言い、御息所は大将への贈り物へ笛を添えて出した。
「この笛のほうは古い伝統のあるものと伺っておりました。こんな女|住居《ずまい》に置きますことも、有名な楽器のために気の毒でございますから、お持ちくださいましてお吹きくださいませば、前駆の声に混じります音を楽しんで聞かせていただけるでしょう」
 と御息所は言った。
「つたない私がいただいてまいることは似合わしくないことでしょう」
 こう言いながら大将は手に取って見た。これも始終柏木が使っていて、自分もこの笛を生かせるほどには吹けない。自分の愛する人に与えたいとこんなことを柏木の言うのも聞いたことのある大将であったから、故人の琴に対した時よりもさらに多くの感情が動いた。試みに大将は吹いてみるのであったが、盤渉《ばんしき》調を半分ほど吹奏して、
「故人を忍んで琴を弾きましたことはとにかく、これは晴れがましいまばゆい気がいたされます」
 こう挨拶《あいさつ》して立って行こうとする時に、

[#ここから2字下げ]
露しげき葎《むぐら》の宿にいにしへの秋に変はらぬ虫の声かな
[#ここで字下げ終わり]

 と御息所が言いかけた。

[#ここから2字下げ]
横笛の調べはことに変はらぬをむなしくなりし音《ね》こそ尽きせね
[#ここで字下げ終わり]

 返歌をしてもまだ去りがたくて大将がためらっているうち深更になった。
 自宅に帰ってみると、もう格子などは皆おろされてだれも寝てしまっていた。一条の宮に恋をして親切がった訪問を常にするというようなことを、夫人へ言う者があったために、今夜のようにほかで夜ふかしをされるのが不愉快でならない夫人は、良人《おっと》が室内《へや》へはいって来たことも知りながら寝入ったふうをしているものらしい。「妹《いも》とわれといるさの山の山あららぎ」(手をとりふれぞや、かほまさるかにや)と美しい声で歌いながらはいって来た大将は、
「どうしてこんなに早く戸を皆しめてしまったのだろう。引っ込み思案な人ばかりなのだね。こんな月夜の景色《けしき》をだれも見ようとしないなど」
 と歎息《たんそく》して格子を上げさせ、御簾《みす》を巻き上げなどして縁に近く出て横たわっていた。
「こんなよい晩に眠ってしまう人があるものですか。少し出ていらっしゃい。つまらないじゃありませんか」
 などと夫人へ言うのであるが、おもしろく思っていない夫人は何とも言わないのである。子供が寝おびれて何か言っている声があちこちにして、女房もその辺の部屋《へや》にたくさん寝ている、このにぎわしい自宅の夜と、一条邸の夜とのあまりにも相違しているのを大将は思い比べていた。贈られた笛を吹きながら自分の去ったあとの御母子がどんなに寂しく月明の景色をながめておられるだろう、自分の弾いた楽器も宮の合わせてくだすったものもそのままで二人の女性にもてあそばれているであろう、御息所も和琴が上手《じょうず》なはずであるなどと思いやりながら寝ているのである。どうしてあんなにりっぱな宮様を衛門督《えもんのかみ》は形式的に大事がっただけで、ほんとうに愛してはいなかったのであろうと大将は不思議に思われてならない。お顔を見て美しく想像したのと違ったところがあっては不幸な結果をもたらすことにもなろう、ほかのことでも空想をし過ぎたことには必然的に幻滅が起こるものであるなど思いながらも、大将は自身たち夫婦の仲を考えて、なんらの見栄《みえ》も気どりも知らぬ少年少女の時に知った恋の今日まで続いて来た年月を数えてみては、夫人が強い驕慢《きょうまん》な妻になっているのに無理でないところがあるとも思われた。
 少し寝入ったかと思うと故人の衛門督がいつか病室で見た時の袿《うちぎ》姿でそばにいて、あの横笛を手に取っていた。夢の中でも故人が笛に心を惹《ひ》かれて出て来たに違いないと思っていると、

[#ここから1字下げ]
「笛竹に吹きよる風のごとならば末の世長き音《ね》に伝へなん
[#ここで字下げ終わり]

 私はもっとほかに望んだことがあったのです」
 と柏木は言うのである。望みということをよく聞いておこうとするうちに、若君が寝おびれて泣く声に目がさめた。この子が長く泣いて乳を吐いたりなどするので、乳母《めのと》が起きて世話をするし、夫人も灯《ひ》を近くへ持って来させて、顔にかかる髪を耳の後ろにはさみながら子を抱いてあやしなどしていた。色白な夫人が胸を拡《ひろ》げて泣く子に乳などをくくめていた。子供も色の白い美しい子であるが、出そうでない乳房《ちぶさ》を与えて母君は慰めようとつとめているのである。大将もそのそばへ来て、
「どう」
 などと言っていた。夜の魔を追い散らすために米なども撒《ま》かれる騒がしさに夢の悲しさも紛らされてゆく大将であった。
「この子は病気になったらしい。はなやかな方に夢中になっていらっしって、おそくなってから月をながめたりなさるって格子をあけさせたりなさるものだから、また物怪《もののけ》がはいって来たのでしょう」
 と若々しい顔をした夫人が恨むと、良人《おっと》は笑って、
「変にこじつけて私の罪にするのですね。私が格子を上げさせなかったらなるほど物怪ははいる道がなかったろうね。おおぜいの人のお母様になったあなただから、たいした考え方ができるようになったものだ」
 こう言っても妻をながめる大将の美しい目つきはさすがに恥ずかしがって、続けて恨みも言わずに、
「あちらへいらっしゃい。人が見ます。見苦しい」
 とだけ言った。明るい灯《ひ》に顔を見られるのをいやがるのも可憐《かれん》な妻であると大将は思った。若君は夜通しむずかって寝なかった。
 大将は夢を思うと贈られた横笛ももてあまされる気がした。故人の強い愛着の遺《のこ》った品がやりたく思う人の手に行っていぬものらしい。しかも宮の御もとへ置きたく思う理由もない。それは笛が女の吹奏を待つものでないからである。生きておれば何とも思わぬことが臨終の際にふと気がかりになったり、ふと恋しく心が残ったりすることで幽魂が浄土へは向かわず宙宇に迷うと言われている。そうであるから人間は何事にも執着になるほどの関心を持ってはならないのであると、こんなことを思って大納言のために愛宕《おたぎ》の寺で誦経《ずきょう》をさせ、またそのほか故人と縁故のある寺でも同じく経を読ませた。この笛を歴史的価値のある物として、好意で自分へ贈った人に対しては、それがどんな尊いことであっても寺へ納めたりしてしまうことも不本意なことであると思って、大将は六条院へ参った。
 その時院は姫君の女御《にょご》の御殿へ行っておいでになった。三歳ぐらいになっておいでになる三の宮を女一の宮と同じように紫の女王《にょおう》がお養いしていて、対へお置き申してあるのであるが、大将が行くと走っておいでになって、
「大将さん、私を抱いてあちらの御殿へつれて行ってちょうだい」
 うやうやしい態度で、そしてお小さい方らしくお言いになると、大将は笑って、
「いらっしゃいませ。けれど女王様のお御簾《みす》の前をどうしてお通りいたしましょう。私よりもあなた様がお困りになりましょう」
 こう言いながらすわった膝《ひざ》へ宮を抱いておのせすると、
「だれも見ないよ。いいよ。私顔を隠して行くから」
 宮が袖《そで》を顔へお当てになるのもおかわいらしくて大将はそのまま寝殿のほうへお抱きして行った。
 こちらの御殿のほうでも院が宮の若君と二の宮がいっしょに遊んでおいでになるのをかわいく思ってながめておいでになるのであった。かどのお座敷の前で三の宮をお下《お》ろししたのを、二の宮がお見つけになって、
「私も大将に抱いていただくのだ」
 とお言いになると、三の宮が、
「いけない、私の大将だもの」
 と言って伯父《おじ》君の上着を引っぱっておいでになる。院が御覧になって、
「お行儀のないことですよ。お上《かみ》のお付きの大将を御自分のものにしようとお争いになったりしてはなりませんよ。三の宮さんはよくわからずやをお言いになりますね。いつでもお兄様に反抗をなさいますね」
 とお訓《さと》しになる。大将も笑って、
「二の宮様はずいぶんお兄様らしくて、お小さい方によくお譲りになったり、思いやりのあることをなさいます。大人でも恥ずかしくなるほどでございます」
 こんなことを言っていた。院は微笑を顔にお浮かべになって、お小言《こごと》はお言いになったものの、どちらもかわいくてならぬというような表情をしておいでになった。
「公卿《こうけい》をこんな失礼な所へ置いてはおけない。対のほうへ行くことにしよう」
 とお言いになって、立とうとあそばされるのであるが、宮たちがまつわってお離れにならない。宮の若君は宮たちと同じに扱うべきでないとお心の中では思召《おぼしめ》されるのであるが、女三の尼宮が心の鬼からその差別待遇をゆがめて解釈されることがあってはと、優しい御性質の院はお思いになって、若君をもおかわいがりになり、大事にもあそばすのであった。大将はこの若君をまだよく今までに顔を見なかったと思って、御簾《みす》の間から顔を出した時に、花の萎《しお》れた枝の落ちているのを手に取って、その児《こ》に見せながら招くと、若君は走って来た。薄藍《うすあい》色の直衣《のうし》だけを上に着ているこの小さい人の色が白くて光るような美しさは、皇子がたにもまさっていて、きわめて清らかな感じのする子であった。ある疑問に似たものを持つ思いなしか、眸《まな》ざしなどにはその人のよりも聡慧《そうけい》らしさが強く現われては見えるが、切れ長な目の目じりのあたりの艶《えん》な所などはよく柏木《かしわぎ》に似ていると思われた。美しい口もとの笑う時にことさらはなやかに見えることなどは自分の心に潜在するものがそう思わせるのかもしらぬが、院のお目には必ずお思い合わせになることが
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング