しまった。今日のはなやかな光景を見るにつけても、明石を源氏のお立ちになったころの歎《なげ》かわしかったこと、女御が幼児であったころにした悲しい思いが追想されて、運命に恵まれていることを知った。そしてまた山へはいった良人《おっと》も恋しく思われて涙のこぼれる気持ちをおさえて、

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住《すみ》の江を生けるかひある渚《なぎさ》とは年ふるあまも今日や知るらん
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 と書いた。お返事がおそくなっては見苦しいと思い、感じたままの歌をもってしたのである。

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昔こそ先《ま》づ忘られね住吉の神のしるしを見るにつけても
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 とまた独言《ひとりごと》もしていた。一行は終夜を歌舞に明かしたのである。二十日《はつか》の月の明りではるかに白く海が見え渡り、霜が厚く置いて松原の昨日とは変わった色にも寒さが感じられて、快く身にしむ社前の朝ぼらけであった。自邸での遊びには馴《な》れていても、あまり外の見物に出ることを好まなかった紫の女王は京の外の旅もはじめての経験であったし、すべてのことが興味深く思われた。

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住の江の松に夜深く置く霜は神の懸《か》けたる木綿《ゆふ》かづらかも
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 紫夫人の作である。小野篁《おののたかむら》の「比良《ひら》の山さへ」と歌った雪の朝を思って見ると、奉った祭りを神が嘉納《かのう》された証《あかし》の霜とも思われて頼もしいのであった。
 女御《にょご》、

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神人《かんびと》の手に取り持たる榊葉《さかきば》に木綿《ゆふ》かけ添ふる深き夜の霜
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 中務《なかつかさ》の君、

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祝子《はふりこ》が木綿《ゆふ》うち紛ひ置く霜は実《げ》にいちじるき神のしるしか
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 そのほかの人々からも多くの歌は詠《よ》まれたが、書いておく必要がないと思って筆者は省いた。こんな場合の歌は文学者らしくしている男の人たちの作も、平生よりできの悪いのが普通で、松の千歳《ちとせ》から解放されて心の琴線に触れるようなものはないからである。
 朝の光がさし上るころにいよいよ霜は深くなって、夜通し飲んだ酒のために神楽《かぐら》の面のようになった自身の顔も知らずに、もう篝火《かがりび》も消えかかっている社前で、まだ万歳万歳と榊《さかき》を振って祝い合っている。この祝福は必ず院の御一族の上に形となって現われるであろうとますますはなばなしく未来が想像されるのであった。非常におもしろくて千夜の時のあれと望まれた一夜がむぞうさに明けていったのを見て、若い人たちは渚《なぎさ》の帰る波のようにここを去らねばならぬことを残念がった。はるばると長い列になって置かれた車の、垂《た》れ絹の風に開く中から見える女衣装は花の錦《にしき》を松原に張ったようであったが、男の人たちの位階によって変わった色の正装をして、美しい膳部を院の御車《みくるま》へ運び続けるのが布衣《ほい》たちには非常にうらやましく見られた。明石の尼君の分も浅香の折敷《おしき》に鈍《にび》色の紙を敷いて精進物で、院の御家族並みに運ばれるのを見ては、
「すばらしい運を持った女というものだね」
 などと彼らは仲間で言い合った。おいでになった時は神前へささげられる、持ち運びの面倒な物を守る人数も多くて、途中の見物も十分におできにならなかったのであったが、帰途は自由なおもしろい旅をされた。この楽しい旅行に山へはいりきりになった入道を与《あずか》らせることのできなかったことを院は物足らず思召されたが、それまでは無理なことであろう。実際老入道がこの一行に加わっているとしたら見苦しいことでなかったであろうか。その人の思い上がった空想がことごとく実現されたのであるから、だれも心は高く持つべきであると教訓をされたようである。いろいろな話題になって明石の人たちがうらやまれ、幸福な人のことを明石の尼君という言葉もはやった。太政大臣家の近江《おうみ》の君は双六《すごろく》の勝負の賽《さい》を振る前には、
「明石《あかし》の尼様、明石の尼様」
 と呪文《じゅもん》を唱えた。
 法皇は仏勤めに精進あそばされて、政治のことなどには何の干渉もあそばさない。春秋の行幸《みゆき》をお迎えになる時にだけ昔の御生活がお心の上に姿を現わすこともあるのであった。女三《にょさん》の宮《みや》をなお気がかりに思召《おぼしめ》されて、六条院は形式上の保護者と見て、内部からの保護を帝《みかど》にお託しになった。それで女三の宮は二品《にほん》の位にお上げられになって、得させられる封戸《ふこ》の数も多くなり、いよいよはなやかなお身の上になったわけである。紫夫人は一方の夫人の宮がこんなふうに年月に添えて勢力の増大していくのに対して、自分はただ院の御愛情だけを力にして今の所は負《ひ》け目がないとしても、そのお志というものも遂には衰えるであろう、そうした寂しい時にあわない前に今のうちに善処したいとは常に思っていることであったが、あまりに賢がるふうに思われてはという遠慮をして口へたびたびは出さないのである。院は法皇だけでなく帝までが関心をお持ちになるということがおそれおおく思召されて、冷淡にする噂《うわさ》を立てさすまいというお心から、今ではあちらへおいでになることと、こちらにおられることとがちょうど半々ほどになっていた。道理なこととは思いながらもかねて思ったとおりの寂しい日の来始めたことに女王《にょおう》は悲しまれたが、表面は冷静に以前のとおりにしていた。東宮に次いでお生まれになった女一の宮を紫夫人は手もとへお置きしてお育て申し上げていた。そのお世話の楽しさに院のお留守《るす》の夜の寂しさも慰められているのであった。御孫の宮はどの方をも皆非常にかわいく夫人は思っているのである。花散里《はなちるさと》夫人は紫夫人も明石夫人も御孫宮がたのお世話に没頭しているのがうらやましくて、左大将の典侍《ないしのすけ》に生ませた若君を懇望して手もとへ迎えたのを愛して育てていた。美しい子でりこうなこの孫君を院もおかわいがりになった。院は御子の数が少ないように見られた方であるが、こうして広く繁栄する御孫たちによって満足をしておいでになるようである。右大臣が院を尊敬して親しくお仕えすることは昔以上で、玉鬘《たまかずら》ももう中年の夫人になり、何かの時には六条院へ訪《たず》ねて来て紫夫人にも逢《あ》って話し合うほかにも親しみ深い往来《ゆきき》が始終あった。姫宮だけは今日もなお少女《おとめ》のようなたよりなさで、また若々しさでおいでになった。もう宮廷の人になりきってしまった女御に気づかいがなくおなりになった院は、この姫宮を幼い娘のように思召して、この方の教育に力を傾けておいでになるのであった。
 朱雀《すざく》院の法皇はもう御命数も少なくなったように心細くばかり思召されるのであるが、この世のことなどはもう顧みないことにしたいとお考えになりながらも、女三の宮にだけはもう一度お逢いあそばされたかった。このまま亡《な》くなって心の残るのはよろしくないことであるから、たいそうにはせず宮が訪《たず》ねておいでになることをお言いやりになった。院も、
「ごもっともなことですよ。こんな仰せがなくともこちらから進んでお伺いをなさらなければならないのに、ましてこうまでお待ちになっておられるのだから、実行しないではお気の毒ですよ」
 とお言いになり、機会をどんなふうにして作ろうかと考えておいでになった。何でもなくそっと伺候をするようなことはみすぼらしくてよろしくない。法皇をお喜ばせかたがた外見の整ったことがさせたいとお思いになるのである。来年法皇は五十におなりになるのであったから、若菜の賀を姫宮から奉らせようかと院はお思いつきになって、それに付帯した法会《ほうえ》の布施《ふせ》にお出しになる法服の仕度《したく》をおさせになり、すべて精進でされる御宴会の用意であるから普通のことと変わって、苦心の払われることを今からお指図《さしず》になっていた。昔から音楽がことにお好きな方であったから、舞の人、楽の人にすぐれたのを選定しようとしておいでになった。右大臣家の下の二人の子、大将の子を典侍腹のも加えて三人、そのほかの御孫も七歳以上の皆殿上勤めをさせておいでになった。それらと、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮のまだ元服前の王子、そのほかの親王がたの子息、御|親戚《しんせき》の子供たちを多く院はお選びになった。殿上人たちの舞い手も容貌《ようぼう》がよくて芸のすぐれたのを選《よ》りととのえて多くの曲の用意ができた。非常な晴れな場合と思ってその人たちは稽古《けいこ》を励むために師匠になる専門家たちは、舞のほうのも楽のほうのも繁忙をきわめていた。女三の宮は琴の稽古を御父の院のお手もとでしておいでになったのであるが、まだ少女時代に六条院へお移りになったために、どんなふうにその芸はなったかと法皇は不安に思召して、
「こちらへ来られた時に宮の琴の音が聞きたい。あの芸だけは仕上げたことと思うが」
 と言っておいでになることが宮中へも聞こえて、
「そう言われるのは決して平凡なお手並みでない芸に違いない。一所懸命に法皇の所へ来てお弾《ひ》きになるのを自分も聞きたいものだ」
 などと仰せられたということがまた六条院へ伝わって来た。院は、
「今までも何かの場合に自分からも教えているが、質はすぐれているがまだたいした芸になっていないのを、何心なくお伺いされた時に、ぜひ弾けと仰せになった場合に、恥ずかしい結果を生むことになってはならない」
 とお言いになって、それから女三の宮に熱心な琴の教授をお始めになった。変わったものを二、三曲、また大曲の長いのが四季の気候によって変わる音、寒い時と空気の暖かい時によっての弾き方を変えねばならぬことなどの特別な奥義をお教えになるのであったが、初めはたよりないふうであったものの、お心によくはいってきて上手《じょうず》におなりになった。昼は人の出入りの物音の多さに妨げられて、絃《いと》を揺《ゆ》すったり、おさえて変わる音の繊細な味を研究おさせになるのに不便なために、夜になってから静かに教うべきであるとお言いになって、女王《にょおう》の了解をお求めになって院はずっと宮の御殿のほうへお泊まりきりになり、朝夕のお稽古《けいこ》の世話をあそばされた。女御《にょご》にも女王にも琴はお教えにならなかったのであったから、このお稽古の時に珍しい秘曲もお弾きになるのであろうことを予期して、女御も得ることの困難なお暇《いとま》をようやくしばらく得て帰邸したのであった。もう皇子を二人お持ちしているのであるが、また妊娠して五月ほどになっていたから、神事の多い季節は御遠慮したいと言ってお暇を願って来たのである。
 十一月が過ぎるともどるようにと宮中からの御催促が急であるのもさしおいて、このごろの楽の音《ね》のおもしろさに女御は六条院を去りがたいのであった。なぜ自分には教えていただけなかったのかと院を恨めしくお思いもしていた。普通と変わって冬の月を最もお好みになる院は、雪のある月夜にふさわしい琴の曲をお弾きになって、女房の中の楽才のあるのに他に楽器で合奏をさせたりして楽しんでおいでになった。
 年末などはことに対の女王が忙しくていっさいの心配《こころくば》りのほかに、女御、宮たちのための春の仕度《したく》に追われて、
「春ののどかな気分になった夕方などにこの琴の音をよくお聞きしたい」
 などと言っていたが年も変わった。
 年の初めにまず帝《みかど》からのはなやかな御賀を法皇はお受けになることになっていて、差し合ってはよろしくないと院は思召し、少したった二月の十幾日のころと姫宮の奉られる賀の日をお定《き》めになり、楽の人、舞い手は始終六条院へ来てその下稽古を熱心にする日が多かった。
「対の女王がいつもお聞きしたがっているあなたの琴
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