御選定しておかれましてはと存じます」
「私もそうは思うのですが、それもまたなかなか困難なことですよ。昔の例を思ってもその時の天子の内親王がたにも配偶者をお選びになって結婚をおさせになることも多かったのですから、まして私のように出家までもする凋落《ちょうらく》に傾いた者の子の配偶者はむずかしい。資格をしいて言いませんが、またどうでもよいとすべてを言ってしまうこともできなくて煩悶《はんもん》ばかりを多くして、病気はいよいよ重るばかりだし、取り返せぬ月日もどんどんたっていくのですから気が気でもない。お気の毒な頼みですが、幼い内親王を一人、特別な御好意で預かってくだすって、だれでもあなたの鑑識にかなった人と縁組みをさせていただきたいと私はそのことをお話ししたかったのです。権中納言などの独身時代にその話を持ち出せばよかったなどと思うのです。太政大臣に先《せん》を越されてうらやましく思われます」
と朱雀《すざく》院は仰せられた。
「中納言はまじめで忠良な良人《おっと》になりうるでしょうが、まだ位なども足りない若さですから、広く思いやりのある姫宮の御補佐としては役だちませんでしょう。失礼でございますが、私が深く愛してお世話を申し上げますれば、あなた様のお手もとにおられますのとたいした変化もなく平和なお気持ちでお暮らしになることができるであろうと存じますが、ただそれはこの年齢の私でございますから、中途でお別れすることになろうという懸念が大きいのでございます」
こうお言いになって、六条院は女三《にょさん》の宮《みや》との御結婚をお引き受けになったのであった。
夜になったので御主人の院付きの高官も六条院に供奉《ぐぶ》して参った高官たちにも御|饗応《きょうおう》の膳《ぜん》が出た。正式なものでなくお料理は精進物の風流な趣のあるもので、席にはお居間が用いられた。朱雀院のは塗り物でない浅香の懸盤《かけばん》の上で、鉢《はち》へ御飯を盛る仏家の式のものであった。こうした昔に変わる光景に列席者は涙をこぼした。身にしむ気分の出た歌も人々によって詠《よ》まれたのであったが省略しておく。夜がふけてから六条院はお帰りになったのである。それぞれ等差のある纏頭《てんとう》を供奉の人々はいただいた。別当大納言はお送りをして六条院へまで来た。
朱雀院は雪の降っていたこの日に起きておいでになったために、また風邪《かぜ》をお引き添えになったのであるが、女三の宮の婚約が成り立ったことで御安心をあそばされた。
六条院も新しい御婚約についての責任感と、紫夫人との夫婦生活の形式が改められねばならぬことをお思いになる苦痛とがお心でいっしょになって煩悶《はんもん》をしておいでになった。朱雀院がそうした考えを持っておいでになるということは女王《にょおう》の耳にもはいっていたのであるが、そんなことにもなるまい、前斎院にあれほど恋はしておられたがしいて結婚も院はなさらなかったのであるからなどと思って、そうした問題のありなしも問わずにいて、疑っていないのを御覧になると、院は心苦しくて、何と思うであろう、自分のこの人に対する愛は少しも変わらないばかりでなく、そういうことになればいよいよ深くなるであろうが、その見きわめがつくまでに、この人は疑って自分自身を苦しめることであろうとお思いになると、お心が静かでありえない。今日になってはもう二人の間に隔てというものは何一つ残さないことに馴《な》れた御夫妻であったから、この話をすぐに話さずにおいでになるのも院は苦痛にされながらその夜はお寝《やす》みになった。
翌日はなお雪が降って空も身にしむ色をしていた。六条院は紫の女王と来し方のこと、未来のことをしみじみと話しておいでになった。
「院の御病気がお悪くて衰弱しておいでになるのをお見舞いに上がって、いろいろと身にしむことが多かった。女三の宮のことでいまだに御心配をしておられて、私へこんなことを仰せられた」
院はその方を託したいと朱雀院の仰せられた話をくわしくあそばされた。
「あまりにお気の毒なので御辞退ができなかったのだが、これをまた世間は大仰《おおぎょう》に吹聴《ふいちょう》をするだろうね。私はもう今はそうした若い人と新しく結婚するような興味はなくなっているのだから、最初人を介してのお話の時は口実を設けてお断わり申していたのだが、直接お目にかかった際に、御親心というものがあまりに濃厚に見えて、冷淡に辞退をしてしまうことができなかったのですよ。郊外の寺へいよいよ院がおはいりになる時になってここへ迎えようと思う。味気ないこととあなたは思うでしょう。そのためにどんな苦しいことが一方に起こっても、私があなたを思うことは現在と少しも変わらないだろうから不快に思ってはいけませんよ。宮のためにはかえって不幸なことだと私は知っているが、それも体面は作ってあげることを上手《じょうず》にしますよ。そして双方平和な心でいてもらえれば私はうれしいだろう」
などと言われるのであった。ちょっとした恋愛問題を起こしても自身が侮辱されたように思う女王であったから、どんな気がするだろうとあやぶみながら話されたのであったが、夫人は非常に冷静なふうでいて、
「親としての御愛情から出ましたお頼みでございましょうね。私が不快になど思うわけはございません。あちらで私を失礼な女だとも、なぜ遠慮をしてどこへでも行ってしまわないかともおとがめにならなければ、私は安心しております。お母様の女御《にょご》は私の叔母《おば》様でいらっしゃるわけですから、その続き合いで私を大目に見てくださるでしょうか」
と卑下した。
「あなたのそれほど寛大過ぎるのもなぜだろうとかえって私に不安の念が起こる。それはまあ冗談《じょうだん》だが。まあそんなふうにも見てあなたが許していてくれて、一方にもその心得でいてもらって、平和が得られれば私はいよいよあなたを尊敬するだろう。中傷する者があって何を言おうともほんとうと思ってはいけませんよ。すべて噂《うわさ》というものは、だれがためにするところがあって言い出すというのでもなく、良いことは言わずに、悪いことを言うのがおもしろくて言いふらさせるものだが、そんなことから意外な悲劇がかもされもするのだから、人の言葉に動揺を受けないで、ただなるがままになっているのがいいのです。まだ実現されもせぬうちから物思いをして私をむやみに恨むようなことをしないでくださいね」
こう院はおさとしになった。女王は言葉だけでなく心の中でも、こんなふうに天から降ってきたような話で、院としては御辞退のなされようもない問題に対して嫉妬《しっと》はすまい、言えばとてそのとおりになるものでもなく、成り立った話をお破りになることはないであろう、院のお心から発した恋でもないから、やめようもないのに、無益な物思いをしているような噂は立てられたくないと思った。継母《ままはは》である式部卿《しきぶきょう》の宮の夫人が始終自分を詛《のろ》うようなことを言っておいでになって、左大将の結婚についても自分のせいでもあるように、曲がった恨みをかけておいでになるのであるから、この話を聞いた時に、詛いが成就したように思うことであろうなどと、穏やかな性質の夫人もこれくらいのことは心の蔭《かげ》では思われたのであった。今になってはもう幸福であることを疑わなかった自分であった。思い上がって暮らした自分が今後はどんな屈辱に甘んじる女にならねばならぬかしれぬと紫の女王は愁《うれ》いながらもおおようにしていた。
春になった。朱雀《すざく》院では姫宮の六条院へおはいりになる準備がととのった。今までの求婚者たちの失望したことは言うまでもない。帝《みかど》も後宮にお入れになりたい思召《おぼしめ》しを伝えようとしておいでになったが、いよいよ今度のお話の決定したことを聞こし召されておやめになった。六条院はこの春で四十歳におなりになるのであったから、内廷からの賀宴を挙行させるべきであると、帝も春の初めから御心《みこころ》にかけさせられ、世間でも御賀を盛んにしたいと望む人の多いのを、院はお聞きになって、昔から御自身のことでたいそうな式などをすることのおきらいな方だったから話を片端から断わっておいでになった。
正月の二十三日は子《ね》の日であったが、左大将の夫人から若菜《わかな》の賀をささげたいという申し出があった。少し前まではまったく秘密にして用意されていたことで、六条院が御辞退をあそばされる間がなかったのであった。目だたせないようにはしていたが、左大将家をもってすることであったから、玉鬘《たまかずら》夫人の六条院へ出て来る際の従者の列などはたいしたものであった。南の御殿の西の離れ座敷に賀をお受けになる院のお席が作られたのである。屏風《びょうぶ》も壁代《かべしろ》の幕も皆新しい物で装《しつ》らわれた。形式をたいそうにせず院の御座に椅子《いす》は立てなかった。地敷きの織物が四十枚敷かれ、褥《しとね》、脇息《きょうそく》など今日の式場の装飾は皆左大将家からもたらした物であって、趣味のよさできれいに整えられてあった。螺鈿《らでん》の置き棚《だな》二つへ院のお召し料の衣服箱四つを置いて、夏冬の装束、香壺《こうご》、薬の箱、お硯《すずり》、洗髪器《ゆするつき》、櫛《くし》の具の箱なども皆美術的な作品ばかりが選んであった。御|挿頭《かざし》の台は沈《じん》や紫檀《したん》の最上品が用いられ、飾りの金属も持ち色をいろいろに使い分けてある上品な、そして派手《はで》なものであった。玉鬘夫人は芸術的な才能のある人で、工芸品を院のために新しく作りそろえたすぐれたものである。そのほかのことはきわだたせず質素に見せて実質のある賀宴をしたのであった。参列者を引見されるために客座敷へお出しになる時に玉鬘夫人と面会された。いろいろの過去の光景がお心に浮かんだことと思われる。院のお顔は若々しくおきれいで、四十の賀などは数え違いでないかと思われるほど艶《えん》で、賀を奉る夫人の養父でおありになるとも思われないのを見て、何年かを中に置いてお目にかかる玉鬘《たまかずら》の尚侍《ないしのかみ》は恥ずかしく思いながらも以前どおりに親しいお話をした。尚侍の幼児がかわいい顔をしていた。玉鬘夫人は続いて生まれた子供などをお目にかけるのをはばかっていたが、良人《おっと》の左大将はこんな機会にでもお見せ申し上げておかねばお逢《あ》わせすることもできないからと言って、兄弟はほとんど同じほどの大きさで振り分け髪に直衣《のうし》を着せられて来ていたのである。
「過ぎた年月のことというものは、自身の心には長い気などはしないもので、やはり昔のままの若々しい心が改められないのですが、こうした孫たちを見せてもらうことでにわかに恥ずかしいまでに年齢《とし》を考えさせられます。中納言にも子供ができているはずなのだが、うとい者に私をしているのかまだ見せませんよ。あなたがだれよりも先に数えてくだすって年齢《とし》の祝いをしてくださる子《ね》の日も、少し恨めしくないことはない。もう少し老いは忘れていたいのですがね」
と、院は仰せられた。玉鬘もますますきれいになって、重味というようなものも添ってきてりっぱな貴婦人と見えた。
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若葉さす野辺《のべ》の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな
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こう大人《おとな》びた御|挨拶《あいさつ》をした。沈《じん》の木の四つの折敷《おしき》に若菜を形式的にだけ少し盛って出した。院は杯をお取りになって、
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小松原末のよはひに引かれてや野辺の若菜も年をつむべき
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などとお歌いになった。高官たちは南の外座敷の席に着いた。式部卿の宮は参りにくく思召《おぼしめ》したのであるが、院から御招待をお受けになって、御|舅《しゅうと》でいらせられながら賀宴に出ないことは含むことでもあるようであるからとお思いになり、ずっと時間をおくらせておいでにな
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