あったのか、長い綱につながれていて、その綱が几帳の裾《すそ》などにもつれるのを、一所懸命に引いて逃げようとするために、御簾の横があらわに斜《はす》に上がったのを、すぐに直そうとする人がない。そこの柱の所にいた女房などもただあわてるだけでおじけ上がっている。几帳より少し奥の所に袿姿《うちぎすがた》で立っている人があった。階段のある正面から一つ西になった間《ま》の東の端であったから、あらわにその人の姿は外から見られた。紅梅|襲《がさね》なのか、濃い色と淡《うす》い色をたくさん重ねて着たのがはなやかで、着物の裾は草紙の重なった端のように見えた。桜の色の厚織物の細長らしいものを表着《うわぎ》にしていた。裾まであざやかに黒い髪の毛は糸をよって掛けたようになびいて、その裾のきれいに切りそろえられてあるのが美しい。身丈に七、八寸余った長さである。着物の裾の重なりばかりが量《かさ》高くて、その人は小柄なほっそりとした人らしい。この姿も髪のかかった横顔も非常に上品な美人であった。夕明りで見るのであるからこまごまとした所はわからなくて、後ろにはもう闇《やみ》が続いているようなのが飽き足らず思われた。鞠《まり》に夢中でいる若公達《わかきんだち》が桜の散るのにも頓着《とんちゃく》していぬふうな庭を見ることに身が入って、女房たちはまだ端の上がった御簾に気がつかないらしい。猫のあまりに鳴く声を聞いて、その人の見返った顔に余裕のある気持ちの見える佳人であるのを、衛門督は庭にいて発見したのである。大将は簾《すだれ》が上がって中の見えるのを片腹痛く思ったが、自身が直しに寄って行くのも軽率らしく思われることであったから、注意を与えるために咳《せき》払いをすると、立っていた人は静かに奥へはいった。そうはさせながら大将自身も美しい人の隠れてしまったのは物足らなかったのであるが、そのうち猫の綱は直されて御簾も下《お》りたのを見て、大将は思わず歎息《たんそく》の声を洩《も》らした。ましてその人に見入っていた衛門督の胸は何かでふさがれた気がして、あれはだれであろう、女房姿でない袿であったのによって思うのでなくて、人と混同すべくもない容姿から見当のほぼつく人を、なおだれであろうか確かに知りたく思った。素知らぬ顔を大将は作っていたが、自分の見た人を衛門督の目にも見ぬはずはないと思って、その貴女をお気の毒に思った。何ともしがたい恋しく苦しい心の慰めに、大将は猫を招き寄せて、抱き上げるとこの猫にはよい薫香《たきもの》の香が染《し》んでいて、かわいい声で鳴くのにもなんとなく見た人に似た感じがするというのも多情多感というものであろう。
 院がこの若い二人の高官のいるほうを御覧になって、
「高官たちの席があまりに軽々しい。こちらへおいでなさい」
 とお言いになって、対のほうの南の座敷へおはいりになったので人々も皆従って行った。兵部卿の宮はまた室《へや》の中へ院とごいっしょに席を移してお落ち着きになった。高官らもごいっしょである。殿上役人たちは敷き物を得て縁側の座に着いた。饗応《きょうおう》というふうでなく椿餠《つばきもち》、梨《なし》、蜜柑《みかん》などが箱の蓋《ふた》に載せて出されてあったのを、若い人たちは戯れながら食べていた。乾物類の肴《さかな》でお座敷の人々へは酒杯が勧められた。衛門督はじっと思い入ったふうをしていて、ともすれば庭の桜へ目をやった。大将はあの場を共に見た人であったから、衛門督が作っている幻の何であるかがわかる気もするのであった。軽々しくあまりな端近へ出ておられたものであると大将は姫宮をお思いした。あれだけの方がなされることでもないのであるがと思われてくるにしたがって、今まで不可解であったことに合点のゆく気もした。そんな欠点がおありになるために、世間でたいした方のようにいう割合に院の御愛情が薄いという理由が発見されたのである。貴女らしいお慎みが足らず、無邪気であることは可憐《かれん》なものだが、その人の良人《おっと》になっては安心のできないことであろうと軽侮する念も起こった。衛門督は道義も何も思わぬ盲目的な情熱に燃えていた。思いも寄らぬ物の間からほのかながらも確かにその方を見ることができたのも、自分の長い間の恋の祈りが神仏に受け入れられた結果であろうと、こんな解釈をしながらも、ただそれが瞬間のことであったのを残念がった。
 院は座中の人に昔の話をいろいろあそばして、
「太政大臣は私の相手で勝負をよく争われたものだが、蹴鞠《けまり》の技術だけはとうてい自分が敵することのできぬ巧さがおありになった。親のすべてが子に現われてくるものではなかろうが、やはり芸の道だけは不思議によく伝わるものだね。あなたの今日のできばえはたいしたものだった」
 と衛門督へお言いになると、微笑を見せて
「他の点では父祖を恥ずかしめるような私でございますが、遺伝の蹴鞠の芸だけで後世へ名を残すことになりましたらそれで無事かもしれません」
 と言った。
「何も悪くはない。どんなことでも人に出抜けたことは書いておいて後世へ伝うべきだから」
 などと冗談《じょうだん》をお言いになる院の御様子の若々しくて、またお美しいのを衛門督は見て、自分は何によってこの方をおいて宮のお心を自分へ向けることができようと院と自身を比較してもみたが、何からも優越したものを見いだされないのをついに知り、衛門督は寂しい心になって六条院を退出した。大将も帰りを共にして衛門督と車中で話し合った。
「春の日の退屈を紛らわすのには六条院へ伺うのがいちばんよいことですね。また今日のようなひまの出来た時分、桜の散らぬ間にもう一度来るようにおっしゃっていましたから、春を惜しみがてらにこの月のうちにもう一度、その時は小弓をお供にお持たせになっていらっしゃい」
 と大将は言うのであった。道の別れ目までこうして同車して行くのであったが、衛門督は女三《にょさん》の宮《みや》のお噂《うわさ》ばかりがしたくて、
「院は今でも平生のお住居《すまい》は対のほうに決めていらっしゃるようですね。宮様はどんな気持ちでいられるだろう。朱雀《すざく》院様が御秘蔵になすった方が、第一の寵《ちょう》を他の夫人に譲って、しかも同じ家におられるかと思うとお気の毒ですね」
 こんな無遠慮なことを言い出すと、
「そんな失礼なことを院はなさいませんよ。対の夫人は普通にお婚《めと》りになったのでなく、御自身でお育てになった方だという事実から、少し違った親しみがおありになるだけでしょう。宮様を何事の上にでも第一夫人として立てておられますよ」
 と大将は否定した。
「そんなことはまあ言わないでお置きなさい。私は皆聞いて知っていますよ。とてもお気の毒な御様子でおられる時があるのだと言いますよ。光輝ある院の姫君がそれですよ。もったいない気のするのが当然じゃありませんか。

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いかなれば花に木《こ》伝ふ鶯《うぐひす》の桜を分きてねぐらとはせぬ
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 春の鳥でいながらねえ。私には合点のいかないことですよ」
 とも言う。穏当でないたとえをこの人はする、こんな乱暴なことを言うようになったのは、自分が想像したとおりに姫君を見た友が恋を覚えたものに違いないと大将は思った。

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「深山木《みやまぎ》に塒《ねぐら》定むるはこ鳥もいかでか花の色に飽くべき
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 あなたは誤解の上に立脚してお言いになるのだ」
 と反対して言ったが、興奮している右衛門督とこの問題を語ることは避くべきであると思い、あとはほかの話に紛らして別れた。
 衛門督はまだ太政大臣家の東の対に独身で暮らしているのである。結婚にある理想を持っていて長くこうして来たのであるが、時には非常に寂しく心細く思うこともあるものの、自分ほどの者に思うことのかなわないことはないという自信を多分に持って、そうした寂寥《せきりょう》感は心から追っているのであった。それがこの日の夕べからは頭が痛み出し、堪えがたい煩悶《はんもん》をいだくようになった。どんな時にまたあれだけの機会がつかめるであろう、どんなことも目だたずに済む階級の恋人であれば、その人の謹慎日とか、自分の方角|除《よ》けとか、巧みな策略を作って、居所へうかがい寄ることもできるのであるが、これは言葉にも言われぬほどの深窓に隠れた貴女《きじょ》なのであるから、どんな手段でも自分はこれほど愛する心をその人に告げるだけのこともできようとは思われないと衛門督は思うと胸が痛く苦しくなるあまりに、いつも書く小侍従への手紙を書いて送った。
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この間は春風に浮かされまして御園《みその》のうちへ参りましたが、どんなにその時の私がまた御心証を悪くしたことかと悲しまれます。その夕方から私は病気になりまして、続いて今も病床にぼんやりと物思いをしております。
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 などと書かれてあって、

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よそに見て折らぬ歎《なげ》きはしげれどもなごり恋しき花の夕かげ
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 という歌も添っていた。宮のお姿を衛門督が見たことなどは知らない小侍従であったから、ただいつもの物思いという言葉と同じ意味に解した。宮のお居間に女房たちもあまり出ていないのを見て、小侍従は衛門督の手紙を持って参った。
「この人がこの手紙にもございますように、今日までもまだあなた様をお思いすることばかりを書いてまいりますので困ります。あまりに気の毒な様子を見せられますと、私まで頭がどうかしてしまいそうで、どんな間違った手引きなどをいたすかしれません」
 小侍従は笑いながらこう言うのであった。
「いやなことを言う人ね、おまえは」
 無心なふうにそうお言いになって、宮は小侍従の拡《ひろ》げた手紙をお読みになった。「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくてひねもす今日はながめ暮らしつ」という古歌を引いて書いてある所を御覧になった時に、蹴鞠《けまり》の日の御簾《みす》の端の上がっていたことを思い出すことがおできになり、お顔が赤くなった。院が何度も、
「大将に見られないようになさい。あまりにあなたは幼稚にできていらっしゃるから、うっかりとしていてのぞかれることもあるでしょうから」
 こうお誡《いまし》めになったのをお思い出しになり、大将からあの時のことが言われた時、院から自分はどんなにお叱《しか》りを受けることであろうと、手紙の主が見たことなどは問題にもあそばさずに、それを心配あそばしたのは幼いお心の宮様である。平生よりもものをお言いにならず黙っておしまいになったのを見て、小侍従はつぎほのない気がしたし、この上しいて申し上げてよいことでもなかったから、そっと手紙を持って行った。そして忍んで返事を書いた。
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この間はあまりに澄ましておいでになったものですから、軽蔑《けいべつ》をしていらっしゃると思っていたのですが「見ずもあらず」とはどういうことなのでしょう。もったいないことですね。

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今さらに色にな出《い》でそ山桜及ばぬ枝に思ひかけきと

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むだなことはおよしなさいませ。
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 こんな手紙である。



底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
   1994(平成6)年6月15日39版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。
※「この間はあまりに澄ましておいでになったものですから、軽蔑《けいべつ》をしていらっしゃると思っていたのですが「見ずもあらず」とはどういうことなのでしょう。もったいないことですね。」の部分は、手紙の一部であると判断し、他の箇所に合わせて一字下げとしました。
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