のである。紫夫人もこのついでに中宮へお目にかかった。中宮付き、夫人付き、姫君付きの盛装した女房のすわっているのが数も知れぬほどに見えた。裳を付ける式は十二時に始まったのである。ほのかな灯《ひ》の光で御覧になったのであるが、姫君を美しく中宮は思召《おぼしめ》した。
「お愛しくださいますことを頼みにいたしまして、失礼な姿も御前へ出させましたのです。尊貴なあなた様がかようなお世話をくださいますことなどは例もないことであろうと感激に堪えません」
と源氏は申し上げていた。
「経験の少ない私が何もわからずにいたしておりますことに、そんな御|挨拶《あいさつ》をしてくださいましてはかえって困ります」
と御|謙遜《けんそん》して仰せられる中宮の御様子は若々しくて愛嬌《あいきょう》に富んでおいでになるのを見て、この美しい人たちは皆自身の一家族であるという幸福を源氏は感じた。明石《あかし》が蔭《かげ》にいてこの晴れの式も見ることのできないことを悲しむふうであったのを哀れに思って、こちらへ呼ぼうかとも源氏は思ったのであるが、やはり外聞をはばかって実行はしなかった。こうした式についての記事は名文で書かれていてもうるさいものであるのを、自分などがだらしなく書いていっては、かえってきれいなりっぱなことをこわしてしまう結果になるのを恐れて、細かにはしるさない。
東宮の御元服は二十幾日にあった。もうりっぱな大人のようでいらせられたから、だれも令嬢たちを後宮へ入れたい志望を持ったが、源氏がある自信を持って、姫君を東宮へ奉ろうとしているのを知っては、強大な競争者のあるこの宮仕えはかえって娘を不幸にすることではなかろうかと、左大臣、左大将などもまた躊躇《ちゅうちょ》していることを源氏は聞いて、
「それではお上《かみ》へ済まないことになる。宮仕えは多数のうちで、ただ少しの御|愛寵《あいちょう》の差を競うのに意義があるのだ。貴族がたのりっぱな姫君がお出にならないではこちらも張り合いのないことになる」
と言って、姫君の宮仕えの時期を延ばした。たとえ娘を出すにしてもあとのことにしようとしていた人たちはそれを聞いて、最初に左大臣が三女を東宮へ入れた。麗景殿《れいげいでん》と呼ばれることになった。
源氏のほうは昔の宿直所《とのいどころ》の桐壺《きりつぼ》の室内装飾などを直させることなどで時日が延びているのを
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