源氏物語
野分
紫式部
與謝野晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)在《い》まし
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|機嫌《きげん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)紫※[#「くさかんむり/宛」、第3水準1−90−92]《しおん》色
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[#地から3字上げ]けざやかにめでたき人ぞ在《い》ましたる野
[#地から3字上げ]分が開《あ》くる絵巻のおくに (晶子)
中宮《ちゅうぐう》のお住居《すまい》の庭へ植えられた秋草は、今年はことさら種類が多くて、その中へ風流な黒木、赤木のませ垣《がき》が所々に結《ゆ》われ、朝露夕露の置き渡すころの優美な野の景色《けしき》を見ては、春の山も忘れるほどにおもしろかった。春秋の優劣を論じる人は昔から秋をよいとするほうの数が多いのであったが、六条院の春の庭のながめに説を変えた人々はまたこのごろでは秋の讃美《さんび》者になっていた、世の中というもののように。
中宮はこれにお心が惹《ひ》かれてずっと御実家生活を続けておいでになるのであるが、音楽の会の催しがあってよいわけではあっても、八月は父君の前皇太子の御忌月《おんきづき》であったから、それにはばかってお暮らしになるうちにますます草の花は盛りになった。今年の野分《のわき》の風は例年よりも強い勢いで空の色も変わるほどに吹き出した。草花のしおれるのを見てはそれほど自然に対する愛のあるのでもない浅はかな人さえも心が痛むのであるから、まして露の吹き散らされて無惨《むざん》に乱れていく秋草を御覧になる宮は御病気にもおなりにならぬかと思われるほどの御心配をあそばされた。おおうばかりの袖《そで》というものは春の桜によりも実際は秋空の前に必要なものかと思われた。日が暮れてゆくにしたがってしいたげられる草木の影は見えずに、風の音ばかりのつのってくるのも恐ろしかったが、格子なども皆おろしてしまったので宮はただ草の花を哀れにお思いになるよりほかしかたもおありにならなかった。
南の御殿のほうも前の庭を修理させた直後であったから、この野分にもとあらの小萩《こはぎ》が奔放に枝を振り乱すのを傍観しているよりほかはなかった。枝が折られて露の宿ともなれないふうの秋草を女王《にょおう》は縁の近くに出てながめていた。源氏は小姫君の所にいたころであったが、中将が来て東の渡殿《わたどの》の衝立《ついたて》の上から妻戸の開いた中を何心もなく見ると女房がおおぜいいた。中将は立ちどまって音をさせぬようにしてのぞいていた。屏風《びょうぶ》なども風のはげしいために皆畳み寄せてあったから、ずっと先のほうもよく見えるのであるが、そこの縁付きの座敷にいる一女性が中将の目にはいった。女房たちと混同して見える姿ではない。気高《けだか》くてきれいで、さっと匂《にお》いの立つ気がして、春の曙《あけぼの》の霞《かすみ》の中から美しい樺桜《かばざくら》の咲き乱れたのを見いだしたような気がした。夢中になってながめる者の顔にまで愛嬌《あいきょう》が反映するほどである。かつて見たことのない麗人である。御簾《みす》の吹き上げられるのを、女房たちがおさえ歩くのを見ながら、どうしたのかその人が笑った。非常に美しかった。草花に同情して奥へもはいらずに紫の女王がいたのである。女房もきれいな人ばかりがいるようであっても、そんなほうへは目が移らない。父の大臣が自分に接近する機会を与えないのは、こんなふうに男性が見ては平静でありえなくなる美貌《びぼう》の継母と自分を、聡明《そうめい》な父は隔離するようにして親しませなかったのであったと思うと、中将は自身の隙見《すきみ》の罪が恐ろしくなって、立ち去ろうとする時に、源氏は西側の襖子《ふすま》をあけて夫人の居間へはいって来た。
「いやな日だ。あわただしい風だね、格子を皆おろしてしまうがよい、男の用人がこの辺にもいるだろうから、用心をしなければ」
と源氏が言っているのを聞いて、中将はまた元の場所へ寄ってのぞいた。女王は何かものを言っていて源氏も微笑しながらその顔を見ていた。親という気がせぬほど源氏は若くきれいで、美しい男の盛りのように見えた。女の美もまた完成の域に達した時であろうと、身にしむほどに中将は思ったが、この東側の格子も風に吹き散らされて、立っている所が中から見えそうになったのに恐れて身を退《の》けてしまった。そして今来たように咳《せき》払いなどをしながら南の縁のほうへ歩いて出た。
「だから私が言ったように不用心だったのだ」
こう言った源氏がはじめて東の妻戸のあいていたことを見つけた。長い年月の間こうした機会がとらえられなかったのであるが、風は巌《いわ》も動かすという言葉に真理がある、慎み深い貴女《きじょ》も風のために端へ出ておられて、自分に珍しい喜びを与えたのであると中将は思ったのであった。家司《けいし》たちが出て来て、
「たいへんな風力でございます。北東から来るのでございますから、こちらはいくぶんよろしいわけでございます。馬場殿と南の釣殿《つりどの》などは危険に思われます」
などと主人に報告して、下人《げにん》にはいろいろな命令を下していた。
「中将はどこから来たか」
「三条の宮にいたのでございますが、風が強くなりそうだと人が申すものですから、心配でこちらへ出て参りました。あちらではお一方《ひとかた》きりなのですから心細そうになさいまして、風の音なども若い子のように恐ろしがっていられますからお気の毒に存じまして、またあちらへ参ろうと思います」
と中将は言った。
「ほんとうにそうだ。早く行くがいいね。年がいって若い子になるということは不思議なようでも実は皆そうなのだね」
と源氏は大宮に御同情していた。
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騒がしい天気でございますから、いかがとお案じしておりますが、この朝臣《あそん》がお付きしておりますことで安心してお伺いはいたしません。
[#ここで字下げ終わり]
という挨拶《あいさつ》を言づてた。途中も吹きまくる風があって侘《わび》しいのであったが、まじめな公子であったから、三条の宮の祖母君と、六条院の父君への御|機嫌《きげん》伺いを欠くことはなくて、宮中の御謹慎日などで、御所から外へ出られぬ時以外は、役所の用の多い時にも臨時の御用の忙しい時にも、最初に六条院の父君の前へ出て、三条の宮から御所へ出勤することを規則正しくしている人で、こんな悪天候の中へ身を呈するようなお見舞いなども苦労とせずにした。宮様は中将が来たので力を得たようにお喜びになった。
「年寄りの私がまだこれまで経験しないほどの野分ですよ」
とふるえておいでになった。大木の枝の折れる音などもすごかった。家々の瓦《かわら》の飛ぶ中を来たのは冒険であったとも宮は言っておいでになった。はなやかな御生活をあそばされたことも皆過去のことになって、この人一人をたよりにしておいでになる御現状を拝見しては無常も感ぜられるのである。今でも世間から受けておいでになる尊敬が薄らいだわけではないが、かえってお一人子の内大臣のとる態度にあたたかさの欠けたところがあった。
夜通し吹き続ける風に眠りえない中将は、物哀れな気持ちになっていた。今日は恋人のことが思われずに、風の中でした隙見《すきみ》ではじめて知るを得た継母の女王の面影が忘られないのであった。これはどうしたことか、だいそれた罪を心で犯すことになるのではないかと思って反省しようとつとめるのであったが、また同じ幻が目に見えた。過去にも未来にもないような美貌《びぼう》の方である、あれほどの夫人のおられる中へ東の夫人が混じっておられるなどということは想像もできないことである。東の夫人がかわいそうであるとも中将は思った。父の大臣のりっぱな性格がそれによって証明された気もされる。まじめな中将は紫の女王を恋の対象として考えるようなことはしないのであるが、自分もああした妻がほしい、短い人生もああした人といっしょにいれば長生きができるであろうなどと思い続けていた。
明け方に風が少し湿気を帯びた重い音になって村雨《むらさめ》風な雨になった。
「六条院では離れた建築物が皆倒れそうでございます」
などと侍が報じた。風が揉《も》み抜いている間、広い六条院は大臣の住居《すまい》辺はおおぜいの人が詰めているであろうが、東の町などは人少なで花散里《はなちるさと》夫人は心細く思ったことであろうと中将は驚いて、まだほのぼの白《しら》むころに三条の宮から訪《たず》ねに出かけた。横雨が冷ややかに車へ吹き込んで来て、空の色もすごい道を行きながらも中将は、魂が何となく身に添わぬ気がした。これはどうしたこと、また自分には物思いが一つふえることになったのかと慄然《りつぜん》とした。これほどあるまじいことはない、自分は狂気したのかともいろいろに苦しんで六条院へ着いた中将は、すぐに東の夫人を見舞いに行った。非常におびえていた花散里をいろいろと慰めてから、家司《けいし》を呼んで損《そこ》ねた所々の修繕を命じて、それから南の町へ行った。まだ格子は上げられずに人も起きていなかったので、中将は源氏の寝室の前にあたる高欄によりかかって庭をながめていた。風のあとの築山《つきやま》の木が被害を受けて枝などもたくさん折れていた。草むらの乱れたことはむろんで、檜皮《ひわだ》とか瓦《かわら》とかが飛び散り、立蔀《たてじとみ》とか透垣《すきがき》とかが無数に倒れていた。わずかだけさした日光に恨み顔な草の露がきらきらと光っていた。空はすごく曇って、霧におおわれているのである。こんな景色《けしき》に対していて中将は何ということなしに涙のこぼれるのを押し込むように拭《ふ》いて咳《せき》払いをしてみた。
「中将が来ているらしい。まだ早いだろうに」
と言って源氏は起き出すのであった。何か夫人が言っているらしいが、その声は聞こえないで源氏の笑うのが聞こえた。
「昔もあなたに経験させたことのない夜明けの別れを、今はじめて知って寂しいでしょう」
と言っているのが感じよく聞こえた。女王の言葉は聞こえないのであるが、一方の言葉から推して、こうした戯れを言い合う今も緊張した間柄であることが中将にわかった。格子を源氏が手ずからあけるのを見て、あまり近くいることを遠慮して、中将は少し後へ退《の》いた。
「どうだったか、昨晩伺ったことで宮様はお喜びになったかね」
「そうでございました。何でもないことにもお泣きになりますからお気の毒で」
と中将が言うと源氏は笑って、
「もう長くはいらっしゃらないだろう。誠意をこめてお仕えしておくがいい。内大臣はそんなふうでないと私へおこぼしになったことがある。華美なきらきらしいことが好きで、親への孝行も人目を驚かすようにしたい人なのだね。情味を持ってどうしておあげしようというようなことのできない人なのだよ。複雑な性格で、非常な聡明《そうめい》さで末世の大臣に過ぎた力量のある人だがね。まあそう言えばだれにだって欠点はあるからね」
などと源氏は言うのであった。
「あの大風に中宮《ちゅうぐう》付きの役人は皆出て来ていたか、昨夜《ゆうべ》のことが不安だ」
と言って、源氏は中将を見舞いに出すのであった。
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昨晩の風のきついころはどうしておいでになりましたか。私は少しそのころから身体《からだ》の調子がよろしゅうございませんのでただ今はまだ伺われません。
[#ここで字下げ終わり]
という挨拶《あいさつ》を持たせてやったのである。そこを立ち廊の戸を通って中宮の町へ出て行く若い中将の朝の姿が美しかった。東の対の南側の縁に立って、中央の寝殿を見ると、格子が二間ほどだけ上げられて、まだほのかな朝ぼらけに御簾《みす》を巻き上げて女房たちが出ていた。高欄によりかかって庭を見ているのは若い女房ばかりであった。打ち解けた姿でこうしたふう
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