源氏のほうへ膝行《いざ》り寄っていた。
「不思議な風が出てきて琴の音響《ひびき》を引き立てている気がします。どうしたのでしょう」
と首を傾けている玉鬘の様子が灯《ひ》の明りに美しく見えた。源氏は笑いながら、
「熱心に聞いていてくれない人には、外から身にしむ風も吹いてくるでしょう」
と言って、源氏は和琴を押しやってしまった。玉鬘は失望に似たようなものを覚えた。女房たちが近い所に来ているので、例のような戯談《じょうだん》も源氏は言えなかった。
「撫子《なでしこ》を十分に見ないで青年たちは行ってしまいましたね。どうかして大臣にもこの花壇をお見せしたいものですよ。無常の世なのだから、すべきことはすみやかにしなければいけない。昔大臣が話のついでにあなたの話をされたのも今のことのような気もします」
源氏はその時の大臣の言葉を思い出して語った。玉鬘は悲しい気持ちになっていた。
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「なでしこの常《とこ》なつかしき色を見ばもとの垣根《かきね》を人や尋ねん
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私にはあなたのお母さんのことで、やましい点があって、それでつい報告してあげることが遅れてしまうのです」
と源氏は言った。玉鬘は泣いて、
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山がつの垣《かき》ほに生《お》ひし撫子《なでしこ》のもとの根ざしをたれか尋ねん
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とはかないふうに言ってしまう様子が若々しくなつかしいものに思われた。源氏の心はますますこの人へ惹《ひ》かれるばかりであった。苦しいほどにも恋しくなった。源氏はとうていこの恋心は抑制してしまうことのできるものでないと知った。
玉鬘《たまかずら》の西の対への訪問があまりに続いて人目を引きそうに思われる時は、源氏も心の鬼にとがめられて間は置くが、そんな時には何かと用事らしいことをこしらえて手紙が送られるのである。この人のことだけが毎日の心にかかっている源氏であった。なぜよけいなことをし始めて物思いを自分はするのであろう、煩悶《はんもん》などはせずに感情のままに行動することにすれば、世間の批難は免れないであろうが、それも自分はよいとして女のために気の毒である。どんなに深く愛しても春の女王《にょおう》と同じだけにその人を思うことの不可能であることは、自分ながらも明らかに知っている。第二の妻であることによって幸福があろうとは思われない。自分だけはこの世のすぐれた存在であっても、自分の幾人もの妻の中の一人である女に名誉のあるわけはない。平凡な納言級の人の唯一の妻になるよりも決して女のために幸福でないと源氏は知っているのであったから、しいて情人にするのが哀れで、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮か右大将に結婚を許そうか、そうして良人《おっと》の家へ行ってしまえばこの悩ましさから自分は救われるかもしれない。消極的な考えではあるがその方法を取ろうかと思う時もあった。しかもまた西の対へ行って美しい玉鬘を見たり、このごろは琴を教えてもいたので、以前よりも近々と寄ったりしては決心していたことが揺《ゆら》いでしまうのであった。玉鬘もこうしたふうに源氏が扱い始めたころは、恐ろしい気もし、反感を持ったが、それ以上のことはなくて、やはり信頼のできそうなのに安心して、しいて源氏の愛撫《あいぶ》からのがれようとはしなかった。返辞などもなれなれしくならぬ程度にする愛嬌《あいきょう》の多さは知らず知らずに十分の魅力になって、前の考えなどは合理的なものでないと源氏をして思わせた。それでは今のままに自分の手もとへ置いて結婚をさせることにしよう、そして自分の恋人にもしておこう、処女である点が自分に躊躇《ちゅうちょ》をさせるのであるが、結婚をしたのちもこの人に深い愛をもって臨めば、良人《おっと》のあることなどは問題でなく恋は成り立つに違いないとこんなけしからぬことも源氏は思った。それを実行した暁にはいよいよ深い煩悶《はんもん》に源氏は陥ることであろうし、熱烈でない愛しようはできない性質でもあるから悲劇がそこに起こりそうな気のすることである。
内大臣が娘だと名のって出た女を、直ちに自邸へ引き取った処置について、家族も家司《けいし》たちもそれを軽率だと言っていること、世間でも誤ったしかただと言っていることも皆大臣の耳にははいっていたが、弁《べん》の少将が話のついでに源氏からそんなことがあるかと聞かれたことを言い出した時に大臣は笑って言った。
「そうだ、あすこにも今まで噂《うわさ》も聞いたことのない外腹の令嬢ができて、それをたいそうに扱っていられるではないか。あまりに他人のことを言われない大臣だが、不思議に私の家のことだと口の悪い批評をされる。このことなどはそれを証明するものだよ」
「あちらの西の対の姫君はあまり欠点もない人らしゅうございます。兵部卿《ひょうぶきょう》の宮などは熱心に結婚したがっていらっしゃるのですから、平凡な令嬢でないことが想像されると世間でも言っております」
「さあそれがね、源氏の大臣の令嬢である点でだけありがたく思われるのだよ。世間の人心というものは皆それなのだ。必ずしも優秀な姫君ではなかろう。相当な母親から生まれた人であれば以前から人が聞いているはずだよ。円満な幸福を持っていられる方だが、りっぱな夫人から生まれた令嬢が一人もないのを思うと、だいたい子供が少ないたちなんだね。劣り腹といって明石《あかし》の女の生んだ人は、不思議な因縁で生まれたということだけでも何となく未来の好運が想像されるがね。新しい令嬢はどうかすれば、それは実子でないかもしれない。そんな常識で考えられないようなこともあの人はされるのだよ」
と内大臣は玉鬘《たまかずら》をけなした。
「それにしても、だれが婿に決まるのだろう。兵部卿の宮の御熱心が結局勝利を占められることになるのだろう。もとから特別にお仲がいいのだし、大臣の趣味とよく一致した風流人だからね」
と言ったあとに大臣は雲井《くもい》の雁《かり》のことを残念に思った。そうしたふうにだれと結婚をするかと世間に興味を持たせる娘に仕立てそこねたのがくやしいのである。これによっても中将が今一段光彩のある官に上らない間は結婚が許されないと大臣は思った。源氏がその問題の中へはいって来て懇請することがあれば、やむをえず負けた形式で同意をしようという大臣の腹であったが、中将のほうでは少しも焦慮《しょうりょ》するふうを見せず落ち着いているのであったからしかたがないのである。こんなことをいろいろと考えていた大臣は突然行って見たい気になって雲井の雁の居間を訪《たず》ねた。少将も供をして行った。雲井の雁はちょうど昼寝をしていた。薄物の単衣《ひとえ》を着て横たわっている姿からは暑い感じを受けなかった。可憐《かれん》な小柄な姫君である。薄物に透いて見える肌《はだ》の色がきれいであった。美しい手つきをして扇を持ちながらその肱《ひじ》を枕《まくら》にしていた。横にたまった髪はそれほど長くも、多くもないが、端のほうが感じよく美しく見えた。女房たちも几帳《きちょう》の蔭《かげ》などにはいって昼寝をしている時であったから、大臣の来たことをまだ姫君は知らない。扇を父が鳴らす音に何げなく上を見上げた顔つきが可憐で、頬《ほお》の赤くなっているのなども親の目には非常に美しいものに見られた。
「うたた寝はいけないことだのに、なぜこんなふうな寝方をしてましたか。女房なども近くに付いていないでけしからんことだ。女というものは始終自身を護《まも》る心がなければいけない。自分自身を打ちやりしているようなふうの見えることは品の悪いものだ。賢そうに不動の陀羅尼《だらに》を読んで印を組んでいるようなのも憎らしいがね。それは極端な例だが、普通の人でも少しも人と接触をせずに奥に引き入ってばかりいるようなことも、気高《けだか》いようでまたあまり感じのいいものではない。太政大臣が未来のお后《きさき》の姫君を教育していられる方針は、いろんなことに通じさせて、しかも目だつほど専門的に一つのことを深くやらせまい、そしてまたわからないことは何もないようにということであるらしい。それはもっともなことだが、人間にはそれぞれの天分があるし、特に好きなこともあるのだから、何かの特色が自然出てくることだろうと思われる。大人《おとな》になって宮廷へはいられるころはたいしたものだろうと予想される」
などと大臣は娘に言っていたが、
「あなたをこうしてあげたいといろいろ思っていたことは空想になってしまったが、私はそれでもあなたを世間から笑われる人にはしたくないと、よその人のいろいろの話を聞くごとにあなたのことを思って煩悶《はんもん》する。ためそうとするだけで、表面的な好意を寄せるような男に動揺させられるようなことがあってはいけませんよ。私は一つの考えがあるのだから」
ともかわいく思いながら訓《いまし》めもした。昔は何も深く考えることができずに、あの騒ぎのあった時も恥知らずに平気で父に対していたと思い出すだけでも胸がふさがるように雲井の雁は思った。大宮の所からは始終|逢《あ》いたいというふうにお手紙が来るのであるが、大臣が気にかけていることを思うと、御訪問も容易にできないのである。
大臣は北の対に住ませてある令嬢をどうすればよいか、よけいなことをして引き取ったあとで、また人が譏《そし》るからといって家へ送り帰すのも軽率な気のすることであるが、娘らしくさせておいては満足しているらしく自分の心持ちが誤解されることになっていやである、女御《にょご》の所へ来させることにして、馬鹿《ばか》娘として人中に置くことにさせよう、悪い容貌《ようぼう》だというがそう見苦しい顔でもないのであるからと思って、大臣は女御に、
「あの娘をあなたの所へよこすことにしよう。悪いことは年のいった女房などに遠慮なく矯正《きょうせい》させて使ってください。若い女房などが何を言ってもあなただけはいっしょになって笑うようなことをしないでお置きなさい。軽佻《けいちょう》に見えることだから」
と笑いながら言った。
「だれがどう言いましても、そんなつまらない人ではきっとないと思います。中将の兄様などの非常な期待に添わなかったというだけでしょう。こちらへ来ましてからいろんな取り沙汰などをされて、一つはそれでのぼせて粗相《そそう》なこともするのでございましょう」
と女御は貴女《きじょ》らしい品のある様子で言っていた。この人は一つ一つ取り立てて美しいということのできない顔で、そして品よく澄み切った美の備わった、美しい梅の半ば開いた花を朝の光に見るような奥ゆかしさを見せて微笑しているのを大臣は満足して見た。だれよりもすぐれた娘であると意識したのである。
「しかしなんといっても中将の無経験がさせた失敗だ」
などとも父に言われている新令嬢は気の毒である。大臣は女房を訪《たず》ねた帰りにその人の所へも行って見た。
座敷の御簾《みす》をいっぱいに張り出すようにして裾《すそ》をおさえた中で、五節《ごせち》という生意気な若い女房と令嬢は双六《すごろく》を打っていた。
「しょうさい、しょうさい」
と両手をすりすり賽《さい》を撒《ま》く時の呪文《じゅもん》を早口に唱えているのに悪感《おかん》を覚えながらも大臣は従って来た人たちの人払いの声を手で制して、なおも妻戸の細目に開いた隙《すき》から、障子の向こうを大臣はのぞいていた。五節も蓮葉《はすっぱ》らしく騒いでいた。
「御返報しますよ。御返報しますよ」
賽の筒を手でひねりながらすぐには撒こうとしない。姫君の容貌は、ちょっと人好きのする愛嬌《あいきょう》のある顔で、髪もきれいであるが、額の狭いのと頓狂《とんきょう》な声とにそこなわれている女である。美人ではないがこの娘の顔に、鏡で知っている自身の顔と共通したもののあるのを見て、大臣は運にのろわれている気がした。
「こちらで暮らすようになって、あなたに何か気に入らないことがありますか。つい忙しくて訪《たず》ねに来る
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