ことも十分できないが」
と大臣が言うと、例の調子で新令嬢は言う。
「こうしていられますことに何の不足があるものでございますか。長い間お目にかかりたいと念がけておりましたお顔を、始終拝見できませんことだけは成功したものとは思われませんが」
「そうだ、私もそばで手足の代わりに使う者もあまりないのだから、あなたが来たらそんな用でもしてもらおうかと思っていたが、やはりそうはいかないものだからね。ただの女房たちというものは、多少の身分の高下はあっても、皆いっしょに用事をしていては目だたずに済んで気安いものなのだが、それでもだれの娘、だれの子ということが知られているほどの身の上の者は、親兄弟の名誉を傷つけるようなことも自然起こってきておもしろくないものだろうが、まして」
言いさして話をやめた父の自尊心などに令嬢は頓着《とんじゃく》していなかった。
「いいえ、かまいませんとも、令嬢だなどと思召《おぼしめ》さないで、女房たちの一人としてお使いくださいまし。お便器のほうのお仕事だって私はさせていただきます」
「それはあまりに不似合いな役でしょう。たまたま巡り合った親に孝行をしてくれる心があれば、その物言いを少し静かにして聞かせてください。それができれば私の命も延びるだろう」
道化たことを言うのも好きな大臣は笑いながら言っていた。
「私の舌の性質がそうなんですね。小さい時にも母が心配しましてよく訓戒されました。妙法寺の別当の坊様が私の生まれる時|産屋《うぶや》にいたのですってね。その方にあやかったのだと言って母が歎息《たんそく》しておりました。どうかして直したいと思っております」
むきになってこう言うのを聞いても孝心はある娘であると大臣は思った。
「産屋《うぶや》などへそんなお坊さんの来られたのが災難なんだね。そのお坊さんの持っている罪の報いに違いないよ。唖《おし》と吃《どもり》は仏教を譏《そし》った者の報いに数えられてあるからね」
と大臣は言っていたが、子ながらも畏敬《いけい》の心の湧《わ》く女御《にょご》の所へこの娘をやることは恥ずかしい、どうしてこんな欠陥の多い者を家へ引き取ったのであろう、人中へ出せばいよいよ悪評がそれからそれへ伝えられる結果を生むではないかと思って、大臣は計画を捨てる気にもなったのであるが、また、
「女御が家《うち》へ帰っておいでになる間に、あなたは時々あちらへ行って、いろんなことを見習うがいいと思う。平凡な人間も貴女《きじょ》がたの作法に会得《えとく》が行くと違ってくるものだからね。そんなつもりであちらへ行こうと思いますか」
とも言った。
「まあうれしい。私はどうかして皆さんから兄弟だと認めていただきたいと寝ても醒《さ》めても祈っているのでございますからね。そのほかのことはどうでもいいと思っていたくらいでございますからね。お許しさえございましたら女御さんのために私は水を汲《く》んだり運んだりしましてもお仕えいたします」
なお早口にしゃべり続けるのを聞いていて大臣はますます憂鬱《ゆううつ》な気分になるのを、紛らすために言った。
「そんな労働などはしないでもいいがお行きなさい。あやかったお坊さんはなるべく遠方のほうへやっておいてね」
滑稽《こっけい》扱いにして言っているとも令嬢は知らない。また同じ大臣といっても、きれいで、物々しい風采《ふうさい》を備えた、りっぱな中のりっぱな大臣で、だれも気おくれを感じるほどの父であることも令嬢は知らない。
「それではいつ女御さんの所へ参りましょう」
「そう、吉日でなければならないかね。なにいいよ、そんなたいそうなふうには考えずに、行こうと思えば今日にでも」
言い捨てて大臣は出て行った。四位五位の官人が多くあとに従った、権勢の強さの思われる父君を見送っていた令嬢は言う。
「ごりっぱなお父様だこと、あんな方の種なんだのに、ずいぶん小さい家で育ったものだ私は」
五節《ごせち》は横から、
「でもあまりおいばりになりすぎますわ、もっと御自分はよくなくても、ほんとうに愛してくださるようなお父様に引き取られていらっしゃればよかった」
と言った。真理がありそうである。
「まああんた、ぶちこわしを言うのね。失礼だわ。私と自分とを同じように言うようなことはよしてくださいよ。私はあなたなどとは違った者なのだから」
腹をたてて言う令嬢の顔つきに愛嬌《あいきょう》があって、ふざけたふうな姿が可憐《かれん》でないこともなかった。ただきわめて下層の家で育てられた人であったから、ものの言いようを知らないのである。何でもない言葉もゆるく落ち着いて言えば聞き手はよいことのように聞くであろうし、巧妙でない歌を話に入れて言う時も、声《こわ》づかいをよくして、初め終わりをよく聞けないほどにして言えば、作の善悪を批判する余裕のないその場ではおもしろいことのようにも受け取られるのである。強々《こわごわ》しく非音楽的な言いようをすれば善《よ》いことも悪く思われる。乳母《めのと》の懐《ふところ》育ちのままで、何の教養も加えられてない新令嬢の真価は外観から誤られもするのである。そう頭が悪いのでもなかった。三十一字の初めと終わりの一貫してないような歌を早く作って見せるくらいの才もあるのである。
「女御さんの所へ行けとお言いになったのだから、私がしぶしぶにして気が進まないふうに見えては感情をお害しになるだろう。私は今夜のうちに出かけることにする。大臣がいらっしゃっても女御さんなどから冷淡にされてはこの家で立って行きようがないじゃないか」
と令嬢は言っていた。自信のなさが気の毒である。手紙を先に書いた。
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葦垣《あしがき》のまぢかきほどに侍《はべ》らひながら、今まで影踏むばかりのしるしも侍らぬは、なこその関をや据《す》ゑさせ給ひつらんとなん。知らねども武蔵野《むさしの》といへばかしこけれど、あなかしこやかしこや。
[#ここで字下げ終わり]
点の多い書き方で、裏にはまた、
[#ここから1字下げ]
まことや、暮れにも参りこむと思ひ給へ立つは、厭《いと》ふにはゆるにや侍らん。いでや、いでや、怪しきはみなせ川にを。
[#ここで字下げ終わり]
と書かれ、端のほうに歌もあった。
[#ここから2字下げ]
草若みひたちの海のいかが崎《さき》いかで相見む田子の浦波
[#ここから1字下げ]
大川水の(みよし野の大川水のゆほびかに思ふものゆゑ浪《なみ》の立つらん)
[#ここで字下げ終わり]
青い色紙一重ねに漢字がちに書かれてあった。肩がいかって、しかも漂って見えるほど力のない字、しという字を長く気どって書いてある。一行一行が曲がって倒れそうな自身の字を、満足そうに令嬢は微笑して読み返したあとで、さすがに細く小さく巻いて撫子《なでしこ》の花へつけたのであった。厠《かわや》係りの童女はきれいな子で、奉公なれた新参者であるが、それが使いになって、女御の台盤所《だいばんどころ》へそっと行って、
「これを差し上げてください」
と言って出した。下仕《しもづか》えの女が顔を知っていて、北の対に使われている女の子だといって、撫子を受け取った。大輔《たゆう》という女房が女御の所へ持って出て、手紙をあけて見せた。女御は微笑をしながら下へ置いた手紙を、中納言という女房がそばにいて少し読んだ。
「何でございますか、新しい書き方のお手紙のようでございますね」
となお見たそうに言うのを聞いて、女御は、
「漢字は見つけないせいかしら、前後が一貫してないように私などには思われる手紙よ」
と言いながら渡した。
「返事もそんなふうにたいそうに書かないでは低級だと言って軽蔑《けいべつ》されるだろうね。それを読んだついでにあなたから書いておやりよ」
と女御は言うのであった。露骨に笑い声はたてないが若い女房は皆笑っていた。使いが返事を請求していると言ってきた。
「風流なお言葉ばかりでできているお手紙ですから、お返事はむずかしゅうございます。仰せはこうこうと書いて差し上げるのも失礼ですし」
と言って、中納言は女御の手紙のようにして書いた。
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近きしるしなきおぼつかなさは恨めしく、
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ひたちなる駿河《するが》の海の須磨《すま》の浦に浪《なみ》立ちいでよ箱崎《はこざき》の松
[#ここで字下げ終わり]
中納言が読むのを聞いて女御は、
「そんなこと、私が言ったように人が皆思うだろうから」
と言って困ったような顔をしていると、
「大丈夫でございますよ。聞いた人が判断いたしますよ」
と中納言は言って、そのまま包んで出した。新令嬢はそれを見て、
「うまいお歌だこと、まつとお言いになったのだから」
と言って、甘いにおいの薫香《くんこう》を熱心に着物へ焚《た》き込んでいた。紅《べに》を赤々とつけて、髪をきれいになでつけた姿にはにぎやかな愛嬌《あいきょう》があった、女御との会談にどんな失態をすることか。
底本:「全訳源氏物語 中巻」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年11月30日改版初版発行
1994(平成6)年6月15日39版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には2002(平成14)年1月15日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:砂場清隆
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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