源氏物語
常夏
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)源氏は東の釣殿《つりどの》へ出て涼んでいた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)始終|逢《あ》いたい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]露置きてくれなゐいとど深けれどおも
[#地から3字上げ]ひ悩めるなでしこの花   (晶子)

 炎暑の日に源氏は東の釣殿《つりどの》へ出て涼んでいた。子息の中将が侍しているほかに、親しい殿上役人も数人席にいた。桂《かつら》川の鮎《あゆ》、加茂《かも》川の石臥《いしぶし》などというような魚を見る前で調理させて賞味するのであったが、例のようにまた内大臣の子息たちが中将を訪《たず》ねて来た。
「寂しく退屈な気がして眠かった時によくおいでになった」
 と源氏は言って酒を勧めた。氷の水、水飯《すいはん》などを若い人は皆大騒ぎして食べた。風はよく吹き通すのであるが、晴れた空が西日になるころには蝉《せみ》の声などからも苦しい熱が撒《ま》かれる気がするほど暑気が堪えがたくなった。
「水の上の価値が少しもわからない暑さだ。私はこんなふうにして失礼する」
 源氏はこう言って身体《からだ》を横たえた。
「こんなころは音楽を聞こうという気にもならないし、さてまた退屈だし、困りますね。お勤めに出る人たちはたまらないでしょうね。帯も紐《ひも》も解かれないのだからね。私の所だけででも几帳面《きちょうめん》にせずに気楽なふうになって、世間話でもしたらどうですか。何か珍しいことで睡気《ねむけ》のさめるような話はありませんか。なんだかもう老人《としより》になってしまった気がして世間のこともまったく知らずにいますよ」
 などと源氏は言うが、新しい事実として話し出すような問題もなくて、皆かしこまったふうで、涼しい高欄に背を押しつけたまま黙っていた。
「どうしてだれが私に言ったことかも覚えていないのだが、あなたのほうの大臣がこのごろほかでお生まれになったお嬢さんを引き取って大事がっておいでになるということを聞きましたがほんとうですか」
 と源氏は弁《べん》の少将に問うた。
「そんなふうに世間でたいそうに申されるようなことでもございません。この春大臣が夢占いをさせましたことが噂《うわさ》になりまして、それからひょっくりと自分は縁故のある者だと名のって出て来ましたのを、兄の中将が真偽の調査にあたりまして、それから引き取って来たようですが、私は細かいことをよく存じません。結局珍談の材料を世間へ呈供いたしましたことになったのでございます。大臣の尊厳がどれだけそれでそこなわれましたかしれません」
 少将の答えがこうであったから、ほんとうのことだったと源氏は思った。
「たくさんな雁《かり》の列から離れた一羽までもしいてお捜しになったのが少し欲深かったのですね。私の所などこそ、子供が少ないのだから、そんな女の子なども見つけたいのだが、私の所では気が進まないのか少しも名のって来てくれる者がない。しかしともかく迷惑なことだっても大臣のお嬢さんには違いないのでしょう。若い時分は無節制に恋愛関係をお作りになったものだからね。底のきれいでない水に映る月は曇らないであろうわけはないのだからね」
 と源氏は微笑しながら言っていた。子息の左中将も真相をくわしく聞いていることであったからこれも笑いを洩《も》らさないではいられなかった。弁の少将と藤侍従《とうのじじゅう》はつらそうであった。
「ねえ朝臣《あそん》、おまえはその落ち葉でも拾ったらいいだろう。不名誉な失恋男になるよりは同じ姉妹《きょうだい》なのだからそれで満足をすればいいのだよ」
 子息をからかうような調子で父の源氏は言うのであった。内大臣と源氏は大体は仲のよい親友なのであるが、ずっと以前から性格の相違が原因になったわずかな感情の隔たりはあったし、このごろはまた中将を侮蔑《ぶべつ》して失恋の苦しみをさせている大臣の態度に飽き足らないものがあって、源氏は大臣が癪《しゃく》にさわる放言をすると間接に聞くように言っているのである。新しい娘を迎えて失望している大臣の噂《うわさ》を聞いても、源氏は玉鬘《たまかずら》のことを聞いた時に、その人はきっと大騒ぎをして大事に扱うことであろう、自尊心の強い、対象にする物の善《よ》さ悪さで態度を鮮明にしないではいられない性質の大臣は、近ごろ引き取った娘に失望を感じている様子は想像ができるし、また突然にこの玉鬘を見せた時の歓《よろこ》びぶりも思われないでもない、極度の珍重ぶりを見せることであろうなどと源氏は思っていた。夕べに移るころの風が涼しくて、若い公子たちは皆ここを立ち去りがたく思うふ
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