こと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められたのだろう。よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られているものが小説であると見ればよいかもしれない。支那《しな》の文学者が書いたものはまた違うし、日本のも昔できたものと近ごろの小説とは相異していることがあるでしょう。深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心《みこころ》で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経《ほうとうきょう》の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提《ぼだい》心はよくて、煩悩《ぼんのう》は悪いということが言われてあるのです。つまり小説の中に善悪を書いてあるのがそれにあたるのですよ。だから好意的に言えば小説だって何だって皆結構なものだということになる」
と源氏は言って、小説が世の中に存在するのを許したわけである。
「それにしてもね、古いことの書いてある小説の中に私ほどまじめな愚直過ぎる男の書いてあるものがありますか。それからまた人間離れのしたような小説の姫君だってあなたのように恋する男へ冷淡で、知って知らぬ顔をするようなのはないでしょう。だからありふれた小説の型を破った小説にあなたと私のことをさせましょう」
近々と寄って来て源氏は玉鬘《たまかずら》にこうささやくのであった。玉鬘は襟《えり》の中へ顔を引き入れるようにして言う。
「小説におさせにならないでも、こんな奇怪なことは話になって世間へ広まります」
「珍しいことだというのですか。そうです。私の心は珍しいことにときめく」
ひたひたと寄り添ってこんな戯れを源氏は言うのである。
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「思ひ余り昔のあとを尋ぬれど親にそむける子ぞ類《たぐ》ひなき
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不孝は仏の道でも非常に悪いことにして説かれています」
と源氏が言っても、玉鬘は顔を上げようともしなか
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