源氏物語
胡蝶
紫式部
與謝野晶子訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)御代《みよ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)船|下《お》ろし
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)皇※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《こうじょう》
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[#地から3字上げ]盛りなる御代《みよ》の后《きさき》に金の蝶《てふ》しろがねの
[#地から3字上げ]鳥花たてまつる (晶子)
三月の二十日《はつか》過ぎ、六条院の春の御殿の庭は平生にもまして多くの花が咲き、多くさえずる小鳥が来て、春はここにばかり好意を見せていると思われるほどの自然の美に満たされていた。築山《つきやま》の木立ち、池の中島のほとり、広く青み渡った苔《こけ》の色などを、ただ遠く見ているだけでは飽き足らぬものがあろうと思われる若い女房たちのために、源氏は、前から造らせてあった唐風の船へ急に装飾などをさせて池へ浮かべることにした。船|下《お》ろしの最初の日は御所の雅楽寮の伶人《れいじん》を呼んで、船楽を奏させた。親王がた高官たちの多くが参会された。このごろ中宮は御所から帰っておいでになった。去年の秋「心から春待つ園」の挑戦《ちょうせん》的な歌をお送りになったお返しをするのに適した時期であると紫の女王《にょおう》も思うし、源氏もそう考えたが、尊貴なお身の上では、ちょっとこちらへ招待申し上げて花見をおさせするというようなことが不可能であるから、何にも興味を持つ年齢の若い宮の女房を船に乗せて、西東続いた南庭の池の間に中島の岬《みさき》の小山が隔てになっているのを漕《こ》ぎ回らせて来るのであった。東の釣殿《つりどの》へはこちらの若い女房が集められてあった。竜頭鷁首《りゅうとうげきしゅ》の船はすっかり唐風に装われてあって、梶取《かじと》り、棹取《さおと》りの童侍《わらわざむらい》は髪を耳の上でみずらに結わせて、これも支那《しな》風の小童に仕立ててあった。大きい池の中心へ船が出て行った時に、女房たちは外国の旅をしている気がして、こんな経験のかつてない人たちであるから非常におもしろく思った。中島の入り江になった所へ船を差し寄せて眺望《ちょうぼう》をするのであったが、ちょっとした岩の形なども皆絵の中の物のようであった。あちらにもそちらにも霞《かすみ》と同化したような花の木の梢《こずえ》が錦《にしき》を引き渡していて、御殿のほうははるばると見渡され、そちらの岸には枝をたれて柳が立ち、ことに派手《はで》に咲いた花の木が並んでいた。よそでは盛りの少し過ぎた桜もここばかりは真盛《まさか》りの美しさがあった。廊を廻った藤《ふじ》も船が近づくにしたがって鮮明な紫になっていく。池に影を映した山吹《やまぶき》もまた盛りに咲き乱れているのである。水鳥の雌雄の組みが幾つも遊んでいて、あるものは細い枝などをくわえて低く飛び交《か》ったりしていた。鴛鴦《おしどり》が波の綾《あや》の目に紋を描いている。写生しておきたい気のする風景ばかりが次々に目の前へ現われてくるのであったから、仙人《せんにん》の遊戯を見ているうちに斧《おの》の木の柄が朽ちた話と同じような恍惚《こうこつ》状態になって女房たちは長い時間水上にいた。
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風吹けば浪《なみ》の花さへ色見えてこや名に立てる山吹の崎《さき》
春の池や井手の河瀬《かはせ》に通ふらん岸の山吹底も匂《にほ》へり
亀《かめ》の上の山も訪《たづ》ねじ船の中に老いせぬ名をばここに残さん
春の日のうららにさして行く船は竿《さを》の雫《しづく》も花と散りける
[#ここで字下げ終わり]
こんな歌などを各自が詠《よ》んで、行く先をも帰る所をも忘れるほど若い人たちのおもしろがって遊ぶのに適した水の上であった。暮れかかるころに「皇※[#「鹿/章」、第3水準1−94−75]《こうじょう》」という楽の吹奏が波を渡ってきて、人々の船は歓楽陶酔の中に岸へ着き、設けられた釣殿《つりどの》の休息所へはいった。ここの室内の装飾は簡単なふうにしてあって、しかも艶《えん》なものであった。各夫人の若いきれいな女房たちが、競って華美な姿をして待ち受けていたのは、花の飾りにも劣らず美しかった。曲のありふれたものでない楽が幾つか奏されて、舞い手にも特に選抜された公達《きんだち》が出され、若い女に十分の満足を与えた。夜になってしまったことを源氏は残念に思って、前の庭に篝《かがり》をとぼさせ、階段の下の苔《こけ》の上へ音楽者を近く招いて、堂上の親王がた、高官たちと堂下の伶人《れいじん》とで大合奏が行なわれるのであった。専門家の中の優美な者だけが
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