選ばれて、双調《そうちょう》を笛で吹き出したのをはじめに、その音を待ち取った絃楽《げんがく》が上で起こったのである。絃楽の人ははなやかな音をかき立てて、歌手は「安名尊《あなとうと》」を歌った。生きがいのあることを感じながら庶民たちまでも六条院の門前の馬や車の立てられた蔭《かげ》へはいってこれらを聞いていた。春の空に春の調子の楽音の響く効果というものを、こうした大管絃楽を行なって堂上の人々は知ったであろうと思われた。終夜音楽はあった。呂《ろ》の楽を律へ移すのに「喜春楽《きしゅんらく》」が奏されて、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮は「青柳《あおやぎ》」を二度繰り返してお歌いになった。それには源氏も声を添えた。夜が明け放れた。この朝ぼらけの鳥のさえずりを、中宮は物を隔ててうらやましくお聞きになったのであった。常に春光の満ちた六条院ではあるが、外来者の若い興奮をそそる対象のないことをこれまで物足らず思った人もあったが、西の対の姫君なる人が出現して、これという欠点のない人であること、源氏が愛して大事にかしずくことが世間に知れた今日では、源氏の予期したとおりに思慕を寄せる者、求婚者になる者が多かった。わが地位に自信のある人たちは、女房などの中へ手蔓《てづる》を求めて姫君へ手紙を送る方法もあるし、直接に意志を源氏へ表明することも可能であるが、そうした大胆なことはできずに、心だけを悩ましている若い公達《きんだち》などもあることと思われる。その中にはほんとうのことを知らずに、内大臣家の中将などもあるようである。兵部卿の宮も長く同棲《どうせい》しておいでになった夫人を亡《な》くしておしまいになって、もう三年余りも寂しい独身生活をしておいでになるのであったから、最も熱心な求婚者であった。今朝《けさ》もずいぶん酔ったふうをお作りになって、藤《ふじ》の花などを簪《かざし》にさして、風流な乱れ姿を見せておいでになるのである。源氏も計画どおりになっていくと、心では思うのであるが、つとめて素知らぬ顔をしていた。酒杯のまわって来た時、迷惑な色をお見せになって宮は、
「私がある望みを持っていないのでしたら、逃げ出してしまう所ですよ。もういけません」
と言って、手をお出しになろうとしない。
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紫のゆゑに心をしめたれば淵《ふち》に身投げんことや惜しけき
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とお言いになってから、源氏に、
「あなたはお兄様なのですからお助けください」
と源氏にその杯をお譲りになるのであった。源氏は満面に笑《え》みを見せながら言う。
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淵に身を投げつべしやとこの春は花のあたりを立ちさらで見ん
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源氏がぜひと引きとめるので、宮もお帰りになることができなかった。
今朝《けさ》の管絃楽はまたいっそうおもしろかった。この日は中宮が僧に行なわせられる読経《どきょう》の初めの日であったから、夜を明かした人たちは、ある部屋部屋《へやべや》で休息を取ってから、正装に着かえてそちらへ出るのも多かった。障《さわ》りのある人はここから家へ帰った。正午ごろに皆中宮の御殿へ参った。殿上役人などは残らずそのほうへ行った。源氏の盛んな権勢に助けられて、中宮は百官の全《まった》い尊敬を得ておいでになる形である。春の女王《にょおう》の好意で、仏前へ花が供せられるのであったが、それはことに美しい子が選ばれた童女八人に、蝶《ちょう》と鳥を形どった服装をさせ、鳥は銀の花瓶《かびん》に桜のさしたのを持たせ、蝶には金の花瓶に山吹をさしたのを持たせてあった。桜も山吹も並み並みでなくすぐれた花房《はなぶさ》のものがそろえられてあった。南の御殿の山ぎわの所から、船が中宮の御殿の前へ来るころに、微風が出て瓶の桜が少し水の上へ散っていた。うららかに晴れたその霞の中から、この花の使者を乗せた船の出て来た形は艶《えん》であった。天幕をこちらの庭へ移すことはせずに、左へ出た廊を楽舎のようにして、腰掛けを並べて楽は吹奏されていたのである。童女たちは階梯《きざはし》の下へ行って花を差し上げた。香炉を持って仏事の席を練っていた公達《きんだち》がそれを取り次いで仏前へ供えた。紫の女王の手紙は子息の源中将が持って来た。
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花園の胡蝶《こてふ》をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらん
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というのである。中宮はあの紅葉《もみじ》に対しての歌であると微笑して見ておいでになった。昨日《きのう》招かれて行った女房たちも春をおけなしになることはできますまいと、すっかり春に降参して言っていた。うららかな鶯《うぐいす》の声と鳥の楽が混じり、池の水鳥も自由に場所を変えてさえずる時に、吹奏楽が終わりの急な破《は》になったの
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