であった。今さら肥前へ帰るのも恥ずかしくてできないことであった。思慮の足りなかったことを豊後介は後悔するばかりであるが、つれて来た郎党も何かの口実を作って一人去り二人去り、九州へ逃げて帰る者ばかりであった。無力な失職者になっている長男に同情したようなことを母のおとど[#「おとど」に傍点]が言うと、
「私などのことは何でもありません。姫君を護《まも》っていることができれば、自分の郎党などは一人もなくなってもいいのですよ。どんなに自分らが強力な豪族になったっても、姫君をああした野蛮な連中に取られてしまえば、精神的に死んでしまったのも同然ですよ」
 と豊後介は慰めるのであった。
「神仏のお力にすがればきっと望みの所へ導いてくださるでしょうから、お詣《まい》りをなさるがいいと思います。ここから近い八幡《やわた》の宮は九州の松浦、箱崎《はこざき》と同じ神様なのですから、あちらをお立ちになる時、お立てになった願もありますから、神の庇護で無事に帰京しましたというお礼参りをなさいませ」
 と豊後介は言って、姫君に八幡詣《やわたまい》りをさせた。八幡のことにくわしい人に聞いておいて、御師《おし》という者の中に、昔親の少弐が知っていた僧の残っているのを呼び寄せて、案内をさせたのである。
「このつぎには、仏様の中で長谷《はせ》の観音様は霊験のいちじるしいものがあると支那《しな》にまで聞こえているそうですから、お参りになれば、遠国にいて長く苦労をなすった姫君をきっとお憐《あわれ》みになってよいことがあるでしょう」
 また豊後介は姫君に長谷詣《はせもう》でを勧めて実行させた。船や車を用いずに徒歩で行くことにさせたのである。かつて経験しない長い路《みち》を歩くことは姫君に苦しかったが、人が勧めるとおりにして、つらさを忍んで夢中で歩いて行った。自分は前生にどんな重い罪障があってこの苦しみに堪えねばならないのであろう、母君はもう死んでおいでになるにしても、自分を愛してくださるならその国へ自分をつれて行ってほしい。しかしまだ生きておいでになるのならお顔の見られるようにしていただきたいと姫君は観音を念じていた。姫君は母の顔を覚えていなかった。ただ漠然《ばくぜん》と親というものの面影を今日《きょう》まで心に作って来ているだけであったが、こうした苦難に身を置いては、いっそう親というものの恋しさが切実に感ぜられるのであった。ようやく椿市《つばいち》という所へ、京を出て四日めの昼前に、生きている気もしないで着いた。姫君は歩行らしい歩行もできずに、しかもいろいろな方法で足を運ばせて来たが、もう足の裏が腫《は》れて動かせない状態になって椿市で休息をしたのである。頼みにされている豊後介と、弓矢を持った郎党が二人、そのほかは僕《しもべ》と子供侍が三、四人、姫君の付き添いの女房は全部で三人、これは髪の上から上着を着た壺装束《つぼしょうぞく》をしていた。それから下女が二人、これが一行で、派手《はで》な長谷詣りの一行ではなかった。寺へ燈明料を納めたりすることをここで頼んだりしているうちに日暮れ時になった。この家の主人《あるじ》である僧が向こうで言っている。
「私には今夜泊めようと思っているお客があったのだのに、だれを勝手に泊めてしまったのだ、物知らずの女どもめ、相談なしに何をしたのだ」
 怒《おこ》っているのである。九州の一行は残念な気持ちでこれを聞いていたが、僧の言ったとおりに参詣者の一団が町へはいって来た。これも徒歩で来たものらしい。主人らしいのは二人の女で召使の男女の数は多かった。馬も四、五匹引かせている。目だたぬようにしているが、きれいな顔をした侍などもついていた。主人の僧は先客があってもその上にどうかしてこの連中を泊めようとして、道に出て頭を掻《か》きながら、ひょこひょこと追従《ついしょう》をしていた。かわいそうな気はしたが、また宿を変えるのも見苦しいことであるし、面倒《めんどう》でもあったから、ある人々は奥のほうへはいり、残りの人々はまた見えない部屋《へや》のほうへやったりなどして、姫君と女房たちとだけはもとの部屋の片すみのほうへ寄って、幕のようなもので座敷の仕切りをして済ませていた。あとの客も無作法な人たちではなかった。遠慮深く静かで、双方ともつつましい相い客になっていた。このあとから来た女というのは、姫君を片時も忘れずに恋しがっている右近であった。年月がたつにしたがって、いつまでも続けている女房勤めも気がさすように思われて、煩悶《はんもん》のある心の慰めに、この寺へたびたび詣《まい》っているのである。長い間の経験で徒歩の旅を大儀とも何とも思っているのではなかったが、さすがに足はくたびれて横になっていた。こちらの豊後介は幕の所へ来て、食事なのであろう、自身で折敷《おしき
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