藍《あい》色の唐紙に包んでお上げしたのであった。院はこれを限りもなく身に沁《し》んで御覧になった。このことで御位《みくらい》も取り返したく思召した。源氏をも恨めしく思召されたに違いない。かつて源氏に不合理な厳罰をお加えになった報いをお受けになったのかもしれない。院のお絵は太后の手を経て弘徽殿《こきでん》の女御《にょご》のほうへも多く来ているはずである。尚侍《ないしのかみ》も絵の趣味を多く持っている人であったから、姪《めい》の女御のためにいろいろと名画を集めていた。
 定められた絵合わせの日になると、それはいくぶんにわかなことではあったが、おもしろく意匠をした風流な包みになって、左右の絵が会場へ持ち出された。女官たちの控え座敷に臨時の玉座が作られて、北側、南側と分かれて判者が座についた。それは清涼殿《せいりょうでん》のことで、西の後涼殿の縁には殿上役人が左右に思い思いの味方をしてすわっていた。左の紫檀《したん》の箱に蘇枋《すおう》の木の飾り台、敷き物は紫地の唐錦《からにしき》、帛紗《ふくさ》は赤紫の唐錦である。六人の侍童の姿は朱色の服の上に桜襲《さくらがさね》の汗袗《かざみ》、袙《あこ
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