源氏物語
若紫
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瘧病《わらわやみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)某|僧都《そうず》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]春の野のうらわか草に親しみていとお
[#地から3字上げ]ほどかに恋もなりぬる   (晶子)

 源氏は瘧病《わらわやみ》にかかっていた。いろいろとまじないもし、僧の加持《かじ》も受けていたが効験《ききめ》がなくて、この病の特徴で発作的にたびたび起こってくるのをある人が、
「北山の某《なにがし》という寺に非常に上手《じょうず》な修験僧《しゅげんそう》がおります、去年の夏この病気がはやりました時など、まじないも効果《ききめ》がなく困っていた人がずいぶん救われました。病気をこじらせますと癒《なお》りにくくなりますから、早くためしてごらんになったらいいでしょう」
 こんなことを言って勧めたので、源氏はその山から修験者を自邸へ招こうとした。
「老体になっておりまして、岩窟《がんくつ》を一歩出ることもむずかしいのですから」
 僧の返辞《へんじ》はこんなだった。
「それではしかたがない、そっと微行《しのび》で行ってみよう」
 こう言っていた源氏は、親しい家司《けいし》四、五人だけを伴って、夜明けに京を立って出かけたのである。郊外のやや遠い山である。これは三月の三十日だった。京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りで、山路を進んで行くにしたがって渓々《たにだに》をこめた霞《かすみ》にも都の霞にない美があった。窮屈《きゅうくつ》な境遇の源氏はこうした山歩きの経験がなくて、何事も皆珍しくおもしろく思われた。修験僧の寺は身にしむような清さがあって、高い峰を負った巌窟《いわや》の中に聖人《しょうにん》ははいっていた。
 源氏は自身のだれであるかを言わず、服装をはじめ思い切って簡単にして来ているのであるが、迎えた僧は言った。
「あ、もったいない、先日お召しになりました方様でいらっしゃいましょう。もう私はこの世界のことは考えないものですから、修験の術も忘れておりますのに、どうしてまあわざわざおいでくだすったのでしょう」
 驚きながらも笑《えみ》を含んで源氏を見ていた。非常に偉い僧なのである。源氏を形どった物を作って、瘧病《わらわやみ》をそれに移す祈祷《きとう》をした。加持《かじ》などをしている時分にはもう日が高く上っていた。
 源氏はその寺を出て少しの散歩を試みた。その辺をながめると、ここは高い所であったから、そこここに構えられた多くの僧坊が見渡されるのである。螺旋《らせん》状になった路《みち》のついたこの峰のすぐ下に、それもほかの僧坊と同じ小柴垣《こしばがき》ではあるが、目だってきれいに廻《めぐ》らされていて、よい座敷風の建物と廊とが優美に組み立てられ、庭の作りようなどもきわめて凝《こ》った一構えがあった。
「あれはだれの住んでいる所なのかね」
 と源氏が問うた。
「これが、某|僧都《そうず》がもう二年ほど引きこもっておられる坊でございます」
「そうか、あのりっぱな僧都、あの人の家なんだね。あの人に知れてはきまりが悪いね、こんな体裁で来ていて」
 などと、源氏は言った。美しい侍童などがたくさん庭へ出て来て仏の閼伽棚《あかだな》に水を盛ったり花を供えたりしているのもよく見えた。
「あすこの家に女がおりますよ。あの僧都がよもや隠し妻を置いてはいらっしゃらないでしょうが、いったい何者でしょう」
 こんなことを従者が言った。崖《がけ》を少しおりて行ってのぞく人もある。美しい女の子や若い女房やら召使の童女やらが見えると言った。
 源氏は寺へ帰って仏前の勤めをしながら昼になるともう発作《ほっさ》が起こるころであるがと不安だった。
「気をお紛《まぎ》らしになって、病気のことをお思いにならないのがいちばんよろしゅうございますよ」
 などと人が言うので、後ろのほうの山へ出て今度は京のほうをながめた。ずっと遠くまで霞《かす》んでいて、山の近い木立ちなどは淡く煙って見えた。
「絵によく似ている。こんな所に住めば人間の穢《きたな》い感情などは起こしようがないだろう」
 と源氏が言うと、
「この山などはまだ浅いものでございます。地方の海岸の風景や山の景色《けしき》をお目にかけましたら、その自然からお得《え》になるところがあって、絵がずいぶん御上達なさいますでしょうと思います。富士、それから何々山」
 こんな話をする者があった。また西のほうの国々のすぐれた風景を言って、浦々の名をたくさん並べ立てる者もあったりして、だれも皆病への関心から源氏を放そうと努めているのである。
「近
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