源氏物語
夕顔
紫式部
與謝野晶子訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)うき夜半《よは》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長い間|恢復《かいふく》しない

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(例)[#地から3字上げ]
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[#地から3字上げ]うき夜半《よは》の悪夢と共になつかしきゆめ
[#地から3字上げ]もあとなく消えにけるかな (晶子)

 源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった大弐《だいに》の乳母《めのと》を訪《たず》ねようとして、五条辺のその家へ来た。乗ったままで車を入れる大門がしめてあったので、従者に呼び出させた乳母の息子《むすこ》の惟光《これみつ》の来るまで、源氏はりっぱでないその辺の町を車からながめていた。惟光の家の隣に、新しい檜垣《ひがき》を外囲いにして、建物の前のほうは上げ格子《こうし》を四、五間ずっと上げ渡した高窓式になっていて、新しく白い簾《すだれ》を掛け、そこからは若いきれいな感じのする額を並べて、何人かの女が外をのぞいている家があった。高い窓に顔が当たっているその人たちは非常に背の高いもののように思われてならない。どんな身分の者の集まっている所だろう。風変わりな家だと源氏には思われた。今日は車も簡素なのにして目だたせない用意がしてあって、前駆の者にも人払いの声を立てさせなかったから、源氏は自分のだれであるかに町の人も気はつくまいという気楽な心持ちで、その家を少し深くのぞこうとした。門の戸も蔀風《しとみふう》になっていて上げられてある下から家の全部が見えるほどの簡単なものである。哀れに思ったが、ただ仮の世の相であるから宮も藁屋《わらや》も同じことという歌が思われて、われわれの住居《すまい》だって一所《いっしょ》だとも思えた。端隠しのような物に青々とした蔓草《つるくさ》が勢いよくかかっていて、それの白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、中将の源氏につけられた近衛《このえ》の随身《ずいしん》が車の前に膝《ひざ》をかがめて言った。
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根《かきね》に咲くものでございます」
 その言葉どおりで、貧しげな小家がちのこの通りのあちら、こちら、あるものは倒れそうになった家の軒などにもこの花が咲いていた。
「気の毒な運命の花だね。一枝折ってこい」
 と源氏が言うと、蔀風《しとみふう》の門のある中へはいって随身は花を折った。ちょっとしゃれた作りになっている横戸の口に、黄色の生絹《すずし》の袴《はかま》を長めにはいた愛らしい童女が出て来て随身を招いて、白い扇を色のつくほど薫物《たきもの》で燻《くゆ》らしたのを渡した。
「これへ載せておあげなさいまし。手で提《さ》げては不恰好《ぶかっこう》な花ですもの」
 随身は、夕顔の花をちょうどこの時門をあけさせて出て来た惟光の手から源氏へ渡してもらった。
「鍵《かぎ》の置き所がわかりませんでして、たいへん失礼をいたしました。よいも悪いも見分けられない人の住む界わいではございましても、見苦しい通りにお待たせいたしまして」
 と惟光は恐縮していた。車を引き入れさせて源氏の乳母《めのと》の家へ下《お》りた。惟光の兄の阿闍梨《あじゃり》、乳母の婿の三河守《みかわのかみ》、娘などが皆このごろはここに来ていて、こんなふうに源氏自身で見舞いに来てくれたことを非常にありがたがっていた。尼も起き上がっていた。
「もう私は死んでもよいと見られる人間なんでございますが、少しこの世に未練を持っておりましたのはこうしてあなた様にお目にかかるということがあの世ではできませんからでございます。尼になりました功徳《くどく》で病気が楽になりまして、こうしてあなた様の御前へも出られたのですから、もうこれで阿弥陀《あみだ》様のお迎えも快くお待ちすることができるでしょう」
 などと言って弱々しく泣いた。
「長い間|恢復《かいふく》しないあなたの病気を心配しているうちに、こんなふうに尼になってしまわれたから残念です。長生きをして私の出世する時を見てください。そのあとで死ねば九品蓮台《くぼんれんだい》の最上位にだって生まれることができるでしょう。この世に少しでも飽き足りない心を残すのはよくないということだから」
 源氏は涙ぐんで言っていた。欠点のある人でも、乳母というような関係でその人を愛している者には、それが非常にりっぱな完全なものに見えるのであるから、まして養君《やしないぎみ》がこの世のだれよりもすぐれた源氏の君であっては、自身までも普通の者でないような誇りを覚えている彼女であったから、源氏からこんな言葉を聞いてはただうれし泣きをするばかりであった。息子《むすこ》や娘は母の態度を飽き足りない歯がゆいもののように思って、尼になっていながらこの世への未練をお見せするようなものである、俗縁のあった方に惜しんで泣いていただくのはともかくもだがというような意味を、肱《ひじ》を突いたり、目くばせをしたりして兄弟どうしで示し合っていた。源氏は乳母を憐《あわれ》んでいた。
「母や祖母を早く失《な》くした私のために、世話する役人などは多数にあっても、私の最も親しく思われた人はあなただったのだ。大人《おとな》になってからは少年時代のように、いつもいっしょにいることができず、思い立つ時にすぐに訪《たず》ねて来るようなこともできないのですが、今でもまだあなたと長く逢《あ》わないでいると心細い気がするほどなんだから、生死の別れというものがなければよいと昔の人が言ったようなことを私も思う」
 しみじみと話して、袖《そで》で涙を拭《ふ》いている美しい源氏を見ては、この方の乳母でありえたわが母もよい前生《ぜんしょう》の縁を持った人に違いないという気がして、さっきから批難がましくしていた兄弟たちも、しんみりとした同情を母へ持つようになった。源氏が引き受けて、もっと祈祷《きとう》を頼むことなどを命じてから、帰ろうとする時に惟光《これみつ》に蝋燭《ろうそく》を点《とも》させて、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物《たきもの》の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。

[#ここから2字下げ]
心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
[#ここで字下げ終わり]

 散らし書きの字が上品に見えた。少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に好感を覚えた。惟光に、
「この隣の家にはだれが住んでいるのか、聞いたことがあるか」
 と言うと、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
「この五、六日母の家におりますが、病人の世話をしておりますので、隣のことはまだ聞いておりません」
 惟光《これみつ》が冷淡に答えると、源氏は、
「こんなことを聞いたのでおもしろく思わないんだね。でもこの扇が私の興味をひくのだ。この辺のことに詳しい人を呼んで聞いてごらん」
 と言った。はいって行って隣の番人と逢って来た惟光は、
「地方庁の介《すけ》の名だけをいただいている人の家でございました。主人は田舎《いなか》へ行っているそうで、若い風流好きな細君がいて、女房勤めをしているその姉妹たちがよく出入りすると申します。詳しいことは下人《げにん》で、よくわからないのでございましょう」
 と報告した。ではその女房をしているという女たちなのであろうと源氏は解釈して、いい気になって、物馴《ものな》れた戯れをしかけたものだと思い、下の品であろうが、自分を光源氏と見て詠《よ》んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬという気がした。というのは女性にはほだされやすい性格だからである。懐紙《ふところがみ》に、別人のような字体で書いた。

[#ここから2字下げ]
寄りてこそそれかとも見め黄昏《たそが》れにほのぼの見つる花の夕顔
[#ここで字下げ終わり]

 花を折りに行った随身に持たせてやった。夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったが、隣の家の主人筋らしい貴人はそれらしく思われて贈った歌に、返事のないのにきまり悪さを感じていたところへ、わざわざ使いに返歌を持たせてよこされたので、またこれに対して何か言わねばならぬなどと皆で言い合ったであろうが、身分をわきまえないしかただと反感を持っていた随身は、渡す物を渡しただけですぐに帰って来た。
 前駆の者が馬上で掲げて行く松明《たいまつ》の明りがほのかにしか光らないで源氏の車は行った。高窓はもう戸がおろしてあった。その隙間《すきま》から蛍《ほたる》以上にかすかな灯《ひ》の光が見えた。
 源氏の恋人の六条|貴女《きじょ》の邸《やしき》は大きかった。広い美しい庭があって、家の中は気高《けだか》く上手《じょうず》に住み馴《な》らしてあった。まだまったく源氏の物とも思わせない、打ち解けぬ貴女を扱うのに心を奪われて、もう源氏は夕顔の花を思い出す余裕を持っていなかったのである。早朝の帰りが少しおくれて、日のさしそめたころに出かける源氏の姿には、世間から大騒ぎされるだけの美は十分に備わっていた。
 今朝《けさ》も五条の蔀風《しとみふう》の門の前を通った。以前からの通り路《みち》ではあるが、あのちょっとしたことに興味を持ってからは、行き来のたびにその家が源氏の目についた。幾日かして惟光が出て来た。
「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せませんで、失礼いたしました」
 こんな挨拶《あいさつ》をしたあとで、少し源氏の君の近くへ膝《ひざ》を進めて惟光朝臣《これみつあそん》は言った。
「お話がございましたあとで、隣のことによく通じております者を呼び寄せまして、聞かせたのでございますが、よくは話さないのでございます。この五月ごろからそっと来て同居している人があるようですが、どなたなのか、家の者にもわからせないようにしていますと申すのです。時々私の家との間の垣根《かきね》から私はのぞいて見るのですが、いかにもあの家には若い女の人たちがいるらしい影が簾《すだれ》から見えます。主人がいなければつけない裳《も》を言いわけほどにでも女たちがつけておりますから、主人である女が一人いるに違いございません。昨日《きのう》夕日がすっかり家の中へさし込んでいました時に、すわって手紙を書いている女の顔が非常にきれいでした。物思いがあるふうでございましたよ。女房の中には泣いている者も確かにおりました」
 源氏はほほえんでいたが、もっと詳しく知りたいと思うふうである。自重をなさらなければならない身分は身分でも、この若さと、この美の備わった方が、恋愛に興味をお持ちにならないでは、第三者が見ていても物足らないことである。恋愛をする資格がないように思われているわれわれでさえもずいぶん女のことでは好奇心が動くのであるからと惟光《これみつ》は主人をながめていた。
「そんなことから隣の家の内の秘密がわからないものでもないと思いまして、ちょっとした機会をとらえて隣の女へ手紙をやってみました。するとすぐに書き馴《な》れた達者な字で返事がまいりました、相当によい若い女房もいるらしいのです」
「おまえは、なおどしどし恋の手紙を送ってやるのだね。それがよい。その人の正体が知れないではなんだか安心ができない」
 と源氏が言った。家は下《げ》の下《げ》に属するものと品定《しなさだ》めの人たちに言われるはずの所でも、そんな所から意外な趣のある女を見つけ出すことがあればうれしいに違いないと源氏は思うのである。
 源氏は空蝉《うつせみ》の極端な冷淡さをこの世の女の心とは思われないと考えると、あの女が言うままになる女であったなら、気の毒な過失をさせたということだけで、もう過去へ葬ってしまったかもしれないが、強い態度を取り続けられるために、負けたくないと反抗心が起こるのであるとこ
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