んなふうに思われて、その人を忘れている時は少ないのである。これまでは空蝉《うつせみ》階級の女が源氏の心を引くようなこともなかったが、あの雨夜の品定めを聞いて以来好奇心はあらゆるものに動いて行った。何の疑いも持たずに一夜の男を思っているもう一人の女を憐《あわれ》まないのではないが、冷静にしている空蝉にそれが知れるのを、恥ずかしく思って、いよいよ望みのないことのわかる日まではと思ってそれきりにしてあるのであったが、そこへ伊予介《いよのすけ》が上京して来た。そして真先《まっさき》に源氏の所へ伺候した。長い旅をして来たせいで、色が黒くなりやつれた伊予の長官は見栄《みえ》も何もなかった。しかし家柄もいいものであったし、顔だちなどに老いてもなお整ったところがあって、どこか上品なところのある地方官とは見えた。任地の話などをしだすので、湯の郡《こおり》の温泉話も聞きたい気はあったが、何ゆえとなしにこの人を見るときまりが悪くなって、源氏の心に浮かんでくることは数々の罪の思い出であった。まじめな生一本《きいっぽん》の男と対《むか》っていて、やましい暗い心を抱くとはけしからぬことである。人妻に恋をして三角関係を作る男の愚かさを左馬頭《さまのかみ》の言ったのは真理であると思うと、源氏は自分に対して空蝉の冷淡なのは恨めしいが、この良人《おっと》のためには尊敬すべき態度であると思うようになった。
伊予介が娘を結婚させて、今度は細君を同伴して行くという噂《うわさ》は、二つとも源氏が無関心で聞いていられないことだった。恋人が遠国へつれられて行くと聞いては、再会を気長に待っていられなくなって、もう一度だけ逢《あ》うことはできぬかと、小君《こぎみ》を味方にして空蝉に接近する策を講じたが、そんな機会を作るということは相手の女も同じ目的を持っている場合だっても困難なのであるのに、空蝉のほうでは源氏と恋をすることの不似合いを、思い過ぎるほどに思っていたのであるから、この上罪を重ねようとはしないのであって、とうてい源氏の思うようにはならないのである。空蝉はそれでも自分が全然源氏から忘れられるのも非常に悲しいことだと思って、おりおりの手紙の返事などに優しい心を見せていた。なんでもなく書く簡単な文字の中に可憐《かれん》な心が混じっていたり、芸術的な文章を書いたりして源氏の心を惹《ひ》くものがあったから、冷淡な恨めしい人であって、しかも忘れられない女になっていた。もう一人の女は他人と結婚をしても思いどおりに動かしうる女だと思っていたから、いろいろな噂を聞いても源氏は何とも思わなかった。秋になった。このごろの源氏はある発展を遂げた初恋のその続きの苦悶《くもん》の中にいて、自然左大臣家へ通うことも途絶えがちになって恨めしがられていた。六条の貴女《きじょ》との関係も、その恋を得る以前ほどの熱をまた持つことのできない悩みがあった。自分の態度によって女の名誉が傷つくことになってはならないと思うが、夢中になるほどその人の恋しかった心と今の心とは、多少|懸隔《へだたり》のあるものだった。六条の貴女はあまりにものを思い込む性質だった。源氏よりは八歳《やっつ》上の二十五であったから、不似合いな相手と恋に堕《お》ちて、すぐにまた愛されぬ物思いに沈む運命なのだろうかと、待ち明かしてしまう夜などには煩悶《はんもん》することが多かった。
霧の濃くおりた朝、帰りをそそのかされて、睡《ね》むそうなふうで歎息《たんそく》をしながら源氏が出て行くのを、貴女の女房の中将が格子《こうし》を一間だけ上げて、女主人《おんなあるじ》に見送らせるために几帳《きちょう》を横へ引いてしまった。それで貴女は頭を上げて外をながめていた。いろいろに咲いた植え込みの花に心が引かれるようで、立ち止まりがちに源氏は歩いて行く。非常に美しい。廊のほうへ行くのに中将が供をして行った。この時節にふさわしい淡紫《うすむらさき》の薄物の裳《も》をきれいに結びつけた中将の腰つきが艶《えん》であった。源氏は振り返って曲がり角《かど》の高欄の所へしばらく中将を引き据《す》えた。なお主従の礼をくずさない態度も額髪《ひたいがみ》のかかりぎわのあざやかさもすぐれて優美な中将だった。
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「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝《けさ》の朝顔
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どうすればいい」
こう言って源氏は女の手を取った。物馴《ものな》れたふうで、すぐに、
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朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
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と言う。源氏の焦点をはずして主人の侍女としての挨拶をしたのである。美しい童侍《わらわざむらい》の恰好《かっこう》のよい姿をした子が、指貫《さしぬき》の袴《はかま》を露で濡《ぬ》らしながら、草花の中へはいって行って朝顔の花を持って来たりもするのである、この秋の庭は絵にしたいほどの趣があった。源氏を遠くから知っているほどの人でもその美を敬愛しない者はない、情趣を解しない山の男でも、休み場所には桜の蔭《かげ》を選ぶようなわけで、その身分身分によって愛している娘を源氏の女房にさせたいと思ったり、相当な女であると思う妹を持った兄が、ぜひ源氏の出入りする家の召使にさせたいとか皆思った。まして何かの場合には優しい言葉を源氏からかけられる女房、この中将のような女はおろそかにこの幸福を思っていない。情人になろうなどとは思いも寄らぬことで、女主人の所へ毎日おいでになればどんなにうれしいであろうと思っているのであった。
それから、あの惟光《これみつ》の受け持ちの五条の女の家を探る件、それについて惟光はいろいろな材料を得てきた。
「まだだれであるかは私にわからない人でございます。隠れていることの知れないようにとずいぶん苦心する様子です。閑暇《ひま》なものですから、南のほうの高い窓のある建物のほうへ行って、車の音がすると若い女房などは外をのぞくようですが、その主人らしい人も時にはそちらへ行っていることがございます。その人は、よくは見ませんがずいぶん美人らしゅうございます。この間先払いの声を立てさせて通る車がございましたが、それをのぞいて女《め》の童《わらわ》が後ろの建物のほうへ来て、『右近《うこん》さん、早くのぞいてごらんなさい、中将さんが通りをいらっしゃいます』と言いますと相当な女房が出て来まして、『まあ静かになさいよ』と手でおさえるようにしながら、『まあどうしてそれがわかったの、私がのぞいて見ましょう』と言って前の家のほうへ行くのですね、細い渡り板が通路なんですから、急いで行く人は着物の裾《すそ》を引っかけて倒れたりして、橋から落ちそうになって、『まあいやだ』などと大騒ぎで、もうのぞきに出る気もなくなりそうなんですね。車の人は直衣《のうし》姿で、随身たちもおりました。だれだれも、だれだれもと数えている名は頭中将《とうのちゅうじょう》の随身や少年侍の名でございました」
などと言った。
「確かにその車の主が知りたいものだ」
もしかすればそれは頭中将が忘られないように話した常夏《とこなつ》の歌の女ではないかと思った源氏の、も少しよく探りたいらしい顔色を見た惟光《これみつ》は、
「われわれ仲間の恋と見せかけておきまして、実はその上に御主人のいらっしゃることもこちらは承知しているのですが、女房相手の安価な恋の奴《やっこ》になりすましております。向こうでは上手《じょうず》に隠せていると思いまして私が訪ねて行ってる時などに、女の童《わらわ》などがうっかり言葉をすべらしたりいたしますと、いろいろに言い紛らしまして、自分たちだけだというふうを作ろうといたします」
と言って笑った。
「おまえの所へ尼さんを見舞いに行った時に隣をのぞかせてくれ」
と源氏は言っていた。たとえ仮住まいであってもあの五条の家にいる人なのだから、下の品の女であろうが、そうした中におもしろい女が発見できればと思うのである。源氏の機嫌《きげん》を取ろうと一所懸命の惟光であったし、彼自身も好色者で他の恋愛にさえも興味を持つほうであったから、いろいろと苦心をした末に源氏を隣の女の所へ通わせるようにした。
女のだれであるかをぜひ知ろうともしないとともに、源氏は自身の名もあらわさずに、思いきり質素なふうをして多くは車にも乗らずに通った。深く愛しておらねばできぬことだと惟光は解釈して、自身の乗る馬に源氏を乗せて、自身は徒歩で供をした。
「私から申し込みを受けたあすこの女はこの態《てい》を見たら驚くでしょう」
などとこぼしてみせたりしたが、このほかには最初夕顔の花を折りに行った随身と、それから源氏の召使であるともあまり顔を知られていない小侍だけを供にして行った。それから知れることになってはとの気づかいから、隣の家へ寄るようなこともしない。女のほうでも不思議でならない気がした。手紙の使いが来るとそっと人をつけてやったり、男の夜明けの帰りに道を窺《うかが》わせたりしても、先方は心得ていてそれらをはぐらかしてしまった。しかも源氏の心は十分に惹《ひ》かれて、一時的な関係にとどめられる気はしなかった。これを不名誉だと思う自尊心に悩みながらしばしば五条通いをした。恋愛問題ではまじめな人も過失をしがちなものであるが、この人だけはこれまで女のことで世間の批難を招くようなことをしなかったのに、夕顔の花に傾倒してしまった心だけは別だった。別れ行く間も昼の間もその人をかたわらに見がたい苦痛を強く感じた。源氏は自身で、気違いじみたことだ、それほどの価値がどこにある恋人かなどと反省もしてみるのである。驚くほど柔らかでおおような性質で、深味のあるような人でもない。若々しい一方の女であるが、処女であったわけでもない。貴婦人ではないようである。どこがそんなに自分を惹きつけるのであろうと不思議でならなかった。わざわざ平生の源氏に用のない狩衣《かりぎぬ》などを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。ずっと更《ふ》けてから、人の寝静まったあとで行ったり、夜のうちに帰ったりするのであるから、女のほうでは昔の三輪《みわ》の神の話のような気がして気味悪く思われないではなかった。しかしどんな人であるかは手の触覚からでもわかるものであるから、若い風流男以外な者に源氏を観察していない。やはり好色な隣の五位《ごい》が導いて来た人に違いないと惟光《これみつ》を疑っているが、その人はまったく気がつかぬふうで相変わらず女房の所へ手紙を送って来たり、訪《たず》ねて来たりするので、どうしたことかと女のほうでも普通の恋の物思いとは違った煩悶《はんもん》をしていた。源氏もこんなに真実を隠し続ければ、自分も女のだれであるかを知りようがない、今の家が仮の住居《すまい》であることは間違いのないことらしいから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然《ぼうぜん》とするばかりであろう。行くえを失ってもあきらめがすぐつくものならよいが、それは断然不可能である。世間をはばかって間を空《あ》ッる夜などは堪えられない苦痛を覚えるのだと源氏は思って、世間へはだれとも知らせないで二条の院へ迎えよう、それを悪く言われても自分はそうなる前生の因縁だと思うほかはない、自分ながらもこれほど女に心を惹《ひ》かれた経験が過去にないことを思うと、どうしても約束事と解釈するのが至当である、こんなふうに源氏は思って、
「あなたもその気におなりなさい。私は気楽な家へあなたをつれて行って夫婦生活がしたい」こんなことを女に言い出した。
「でもまだあなたは私を普通には取り扱っていらっしゃらない方なんですから不安で」
若々しく夕顔が言う。源氏は微笑された。
「そう、どちらかが狐《きつね》なんだろうね。でも欺《だま》されていらっしゃればいいじゃない」
なつかしいふうに源氏が言うと、女はその気になっていく。どんな欠点があるにしても、これほど純な女を愛せずにはいられないではないかと思った時、源氏は初めからその疑いを持っていたが
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