も忘れられない光景であつた。
 思ふに、肱川のやうに、どこまでさかのぼつても、どこまで下つて見ても、いつも同じところに停滞してゐるやうな感じは、環境の大小深浅の相違はあれ、支那の揚子江のそれのやうに、大江的趣致であるともいへる。たゞこれは山容水態、淡装をこらした美女佳妓の侍座する四畳半式なだけだ。
 四畳半式も結局、上流に如法寺山を控へ、臥竜淵を添へ、下流に城跡の小丘、高山の屏風をめぐらして、大きくS字形に曲流する大洲の肱川観が、この長流の中心、その枢要の地であるといふことになる。
 風景にも恵まるゝ大洲町であることを祝福せねばならない。

 この風光明媚の地、一人の人材を生まざりしや。
 曽て如法寺に駐杖した盤珪禅師は播磨の人であり、藩公の招聘に応じた中江藤樹は近江生れであつた。維新前蘭学の輸入に際し、一商賈の身をもつて、疾くシーボルトの門下に馳せた三瀬諸淵は、お隣の新谷町に生れて岩倉公に侍し、憲法制定に尽瘁した香渡晋と共に、近代先覚者の名をほしいまゝにするものである。
 諸淵の伝記をこゝに叙する余裕はない。シーボルトについて蘭学医学を研めた三十九歳の生涯は二度獄に投ぜられ、後シーボ
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