《ゆる》く払《はら》いながら、逼《せま》らぬ気味合《きみあい》で眼のまわりに皺《しわ》を湛《たた》えつつも、何か話すところは実に堂々として、どうしても兄分である。そしてまたこの家《や》の主人に対して先輩《せんぱい》たる情愛と貫禄《かんろく》とをもって臨んでいる綽々《しゃくしゃく》として余裕《よゆう》ある態度は、いかにもここの細君をしてその来訪を需《もと》めさせただけのことは有る。これに対座している主人は痩形《やせがた》小づくりというほどでも無いが対手《あいて》が対手だけに、まだ幅《はば》が足らぬように見える。しかしよしや大智深智《だいちしんち》でないまでも、相応に鋭《するど》い智慧《ちえ》才覚が、恐《おそ》ろしい負けぬ気を後盾《うしろだて》にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰《おしつぶ》されぬもののあることを思わせる。
客は無雑作《むぞうさ》に、
「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも無いのですから、まわり気《ぎ》の苦労はなさらないでいいのですヨ。おめでたいことじゃありませんかネ、ハハハ。」
と朗《ほがら》かに笑った。ここの細君は今はもう暗雲を一掃《いっそう》されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風《たいふう》の吹《ふ》いた後の心持で、主客の間の茶盆《ちゃぼん》の位置をちょっと直しながら、軽く頭《かしら》を下げて、
「イエもう、業《わざ》の上の工夫《くふう》に惚《ほ》げていたと解りますれば何のこともございません。ホントにこの人は今までに随分こんなこともございましたッけ。」
と云った。客と主人との間の話で、今日学校で主人が校長から命ぜられた、それは一週間ばかり後に天子様が学校へご臨幸《りんこう》下さる、その折に主人が御前《ごぜん》で製作をしてご覧《らん》に入れるよう、そしてその製品を直《ただち》に、学校から献納《けんのう》し、お持帰りいただくということだったのが、解ったのであった。それで主人の真面目顔をしていたのは、その事に深く心を入れていたためで、別にほかに何があったのでもない、と自然に分明《ぶんみょう》したから、細君は憂《うれい》を転《てん》じて喜と為《な》し得た訳だったが、それも中村さんが、チョクに遊びに来られたお蔭《かげ》で分ったと、上機嫌になったのであった。
女は上機嫌になると、とかくに下らない不必要なことを饒舌《しゃべ》り出して、それが自分の才能ででもあるような顔をするものだが、この細君は夫の厳《きび》しい教育を受けてか、その性分からか、幸《さいわい》にそういうことは無い人であった。純粋《じゅんすい》な感謝《かんしゃ》の念の籠《こも》ったおじぎを一つボクリとして引退《ひきさが》ってしまった。主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。
「君のところへ呼《よ》びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁《かんべん》してくれたまえ。」
「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」
主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗《ちゃわん》の番茶をいかにもゆっくりと飲乾《のみほ》す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、
「君は今日最初辞退をしたネ。」
と軽く話し出した。
「エエ。」
と主人は答えた。
「なぜネ。」
「なぜッて。イヤだったからです。」
「御前へ出るのにイヤってことはあるまい。」
ホンの会話的の軽い非難だったが、答えは急遽《せわ》しかった。
「御前へ出るのにイヤの何のと、そんな勿体《もったい》ないことは夢にも思いません。だから校長に負けてしまいました。」
「ハハア、校長のいいつけがイヤだったのだネ。」
「そうです。だがもう私がすぐに負けてしまったのだから論はありません。」
「負けた負けたというのが変に聞えるよ。分らないネ。校長が別に無理なことを云ったとも私には思えないが。私も校長のいいつけで御前製作をして、面目《めんぼく》をほどこしたことのあるのは君も知っててくれるだろうに。」
と、少し面《おもて》をあげて鬚をしごいた。少し兄分|振《ぶ》っているようにも見えた。しかし若崎の何か勘ちがいをした考《かんがえ》を有《も》っているらしい蒙《もう》を啓《ひら》いてやろうというような心切《しんせつ》から出た言葉に添った態度だったので、いかにも教師くさくは見えたが、威張《いば》っているとは見えなかった。
若崎は話しの流れ方の勢《いきおい》で何だか自分が自分を弁護《べんご》しなければならぬようになったのを感じたが、貧乏神《びんぼうがみ》に執念《しゅうね》く取憑《とりつ》かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世の苦酸《くさん》を嘗《な》めた男であったから、そういう感じが起ると同時にドッコイと踏止《ふみとど》まることを知っているので、反撃的《はんげきてき》の言葉などを出すに至るべき無益と愚《ぐ》との一歩手前で自ら省みた。
「ヤ、あの鶏《にわとり》は実に見事に出来ましたネ。私もあの鶏のような作がきっと出来るというのなら、イヤも鉄砲《てっぽう》も有りはしなかったのですがネ。」
と謙遜《けんそん》の布袋《ぬのぶくろ》の中へ何もかも抛《ほう》り込んでしまう態度を取りにかかった。世の中は無事でさえあれば好《い》いというのなら、これでよかったのだ。しかし若崎のこの答は、どうしても、何か有るのを露《あら》わすまいとしているのであると感じられずにはいない。
「きっと出来るよ。君の腕《うで》だからナ。」
と軽い言葉だ。善意の奨励《しょうれい》だ。赤剥《あかむ》きに剥いて言えば、世間に善意の奨励ほどウソのものは無い。悪意の非難がウソなら、善意の奨励もウソである。真実は意の無いところに在る。若崎は徹底《てってい》してオダテとモッコには乗りたくないと平常《いつも》思っている。客のこの言葉を聞くとブルッとするほど厭《いや》だった。ウソにいじりまわされている芸術ほどケチなものは無いと思っているからである。で、思わず知らず鼻のさきで笑うような調子に、
「腕なんぞで、君、何が出来るかネ。僕等《ぼくら》よりズット偉《えら》い人だって、腕なんかがアテになるものじゃあるまい。」
と云った。何かが破裂《はれつ》したのだ。客はギクリとしたようだったが、さすがは老骨《ろうこつ》だ。禅宗《ぜんしゅう》の味噌《みそ》すり坊主《ぼうず》のいわゆる脊梁骨《せきりょうこつ》を提起《ていき》した姿勢《しせい》になって、
「そんな無茶なことを云い出しては人迷《ひとまよ》わせだヨ。腕で無くって何で芸術が出来る。まして君なぞ既《すで》にいい腕になっているのだもの、いよいよ腕を磨《みが》くべしだネ。」
戦闘《せんとう》が開始されたようなものだ。
「イヤ腕を磨くべきはもとよりだが、腕で芸術が出来るものではない。芸術は出来るもので、こしらえるものでは無さそうだ。君の方ではこしらえとおせるかも知れないが、僕の方や窯業《ようぎょう》の方の、火の芸術にたずさわるものは、おのずと、芸術は出来るものであると信じがちだ。火のはたらきは神秘《しんぴ》霊奇《れいき》だ。その火のはたらきをくぐって僕等の芸術は出来る。それを何ということだ。鋳金《ちゅうきん》の工作|過程《かてい》を実地にご覧に入れ、そして最後には出来上ったものを美術として美術学校から献上《けんじょう》するという。そううまく行くべきものだか、どうだか。むかしも今も席画というがある、席画に美術を求めることの無理で愚《ぐ》なのは今は誰しも認《みと》めている。席上鋳金に美術を求める、そんな分らない校長ではないと思っていたが、校長には校長の考えもあろうし、鋳金はたとい蝋型《ろうがた》にせよ純粋美術とは云い難いが、また校長には把掖《はえき》誘導《ゆうどう》啓発《けいはつ》抜擢《ばってき》、あらゆる恩《おん》を受けているので、実はイヤだナアと思ったけれども枉《ま》げて従った。この心持がせめて君には分ってもらいたいのだが……」
と、中頃は余り言いすごしたと思ったので、末にはその意を濁《にご》してしまった。言ったとて今更どうなることでも無いので、図に乗って少し饒舌《しゃべ》り過ぎたと思ったのは疑いも無い。
中村は少し凹《へこ》まされたかども有るが、この人は、「肉の多きや刃《やいば》その骨に及《およ》ばず」という身体《からだ》つきの徳《とく》を持っている、これもなかなかの功《こう》を経ているものなので、若崎の言葉の中心にはかまわずに、やはり先輩ぶりの態度を崩《くず》さず、
「それで家《うち》へ帰って不機嫌だったというのなら、君はまだ若過ぎるよ。議論みたようなことは、あれは新聞屋や雑誌屋《ざっしや》の手合にまかせておくサ。僕等は直接に芸術の中に居るのだから、塀《へい》の落書《らくがき》などに身を入れて見ることは無いよ。なるほど火の芸術と君は云うが、最後の鋳《い》るという一段だけが君の方は多いネ。ご覧に入れるには割が悪い。」
と打解けて同情し、場合によったら助言でも助勢でもしてやろうという様子だ。
「イヤ割が悪いどころでは無い、熔金《ゆ》を入れるその時に勝負が着くのだからネ。機嫌が甚《ひど》く悪いように見えたのは、どういうものだか、帰りの道で、吾家《うち》が見えるようになってフト気中《きあた》りがして、何だか今度の御前製作は見事に失敗するように思われ出して、それで一倍|鬱屈《うっくつ》したので。」
「気アタリという奴《やつ》は厭なものだネ。わたしも若い時分には時々そういうおぼえがあったが。ナーニ必ず中るとばかりでも無いものだよ。今度の仏像《ぶつぞう》は御首《みぐし》をしくじるなんと予感して大《おおき》にショゲていても、何のあやまちも無く仕上って、かえって褒《ほ》められたことなんぞもありました。そう気にすることも無いものサ。」
と云いかけて、ちょっと考え、
「いったい、何を作ろうと思いなすったのか、まだ未定なのですか。」
と改まったように尋《たず》ねた。
「それが奇妙《きみょう》で、学校の門を出るとすぐに題が心に浮んで、わずかの道の中ですっかり姿《すがた》が纏《まと》まりました。」
「何を……どんなものを。」
「鵞鳥《がちよう》を。二|羽《わ》の鵞鳥を。薄い平《ひら》めな土坡《どば》の上に、雄《おす》の方は高く首を昂《あ》げてい、雌《めす》はその雄に向って寄って行こうとするところです。無論小さく、写生風《しゃせいふう》に、鋳膚《いはだ》で十二分に味を見せて、そして、思いきり伸《の》ばした頸《くび》を、伸ばしきった姿の見ゆるように随分《ずいぶん》細く」
と話すのを、こっちも芸術家だ、眼をふさいで瞑想《めいそう》しながら聴いていると、ありありとその姿が前に在るように見えた。そしてまだ話をきかぬ雌までも浮いて見えたので、
「雌の方の頸はちょいと一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]うねりしてネ、そして後足の爪《つめ》と踵《かかと》とに一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]工夫がある。」
というと、不思議にも言い中《あ》てられたので、
「ハハハ、その通りその通り。」
と主人は爽《さわ》やかに笑った。が、その笑声の終らぬ中《うち》に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損《いそん》じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑《の》んでしまった。
主人は、
「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧いただいているところで失敗しては堪《たま》りませんよ。と云って火のわざですから、失敗せぬよう理詰《りづ》めにはしますが、その時になって土を割ってみない中は何とも分りません。何だか御前で失敗するような気がすると、居ても立っても居られません。」
中村は今|現《げん》に自分にも変な気がしたのであったから、主人に同情せずにはいられなくなった。なるほど火の芸術は! 一切《いっさい》芸術の極致《きょくち》は
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