鵞鳥
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)格子《こうし》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近来|大《おおい》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]通りでは
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 ガラーリ
 格子《こうし》の開《あ》く音がした。茶の間に居た細君《さいくん》は、誰《だれ》かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙《すき》からちょっと窺《うかが》ったが、それがいつも今頃《いまごろ》帰るはずの夫だったと解《わか》ると、すぐとそのままに出て、
「お帰りなさいまし。」
と、ぞんざいに挨拶《あいさつ》して迎《むか》えた。ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体《からだ》にシナを付けて、語音に礼儀《れいぎ》の潤《うるお》いを持たせて、奥様《おくさま》らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手《ふえて》で、褒《ほ》めて云《い》えば真率《しんそつ》なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎《わかざき》先生、とか何とか云われているものの、本《もと》は云わば職人で、その職人だった頃には一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]通りでは無い貧苦《ひんく》と戦ってきた幾年《いくねん》の間《あいだ》を浮世《うきよ》とやり合って、よく搦手《からめて》を守りおおさせたいわゆるオカミサンであったのであるし、それに元来が古風実体《こふうじってい》な質《たち》で、身なり髪《かみ》かたちも余り気にせぬので、まだそれほどの年では無いが、もはや中婆《ちゅうば》ァさんに見えかかっている位である。
「ア、帰ったよ。」
と夫が優しく答えたことなどは、いつの日にも無いことではあったが、それでも夫は神経が敏《さと》くて、受けこたえにまめで、誰に対《むか》っても自然と愛想好《あいそよ》く、日々家へ帰って来る時立迎えると、こちらでもあちらを見る、あちらでもこちらを見る、イヤ、何も互《たがい》にワザと見るというのでも無いが、自然と相見るその時に、夫の眼《め》の中に和《やわ》らかな心、「お前も平安、おれも平安、お互に仕合《しあわ》せだナア」と、それほど立入った細かい筋路《すじみち》がある訳では無いが、何となく和楽《わらく》の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内《かない》であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾《わ》が身が夫の身のまわりに附《つ》いてまわって夫を扱《あつか》い、衣類を着換《きか》えさせてやったり、坐《ざ》を定めさせてやったり、何にかかにか自分の心を夫に添《そ》わせて働くようになる。それがこの数年の定跡《じょうせき》であった。
 ところが今日《きょう》はどういうものであろう。その一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]眼が自分には全く与《あた》えられなかった。夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価《あたい》がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]眼が貴《たっと》いものであったことが悟《さと》られた。と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋《さび》しい不安なものが自分に逼《せま》って来るのを妻は感じた。それは、いつもの通りに、古代の人のような帽子《ぼうし》――というよりは冠《かんむり》を脱《ぬ》ぎ、天神様《てんじんさま》のような服を着換えさせる間にも、いかにも不機嫌《ふきげん》のように、真面目《まじめ》ではあるが、勇《いさ》みの無い、沈《しず》んだ、沈んで行きつつあるような夫の様子《ようす》で、妻はそう感じたのであった。
 永年《ながねん》連添《つれそ》う間には、何家《どこ》でも夫婦《ふうふ》の間に晴天和風ばかりは無い。夫が妻に対して随分《ずいぶん》強い不満を抱《いだ》くことも有り、妻が夫に対して口惜《くや》しい厭《いや》な思《おもい》をすることもある。その最も甚《はなはだ》しい時に、自分は悪い癖《くせ》で、女だてらに、少しガサツなところの有る性分《しょうぶん》か知らぬが、ツイ荒《あら》い物言いもするが、夫はいよいよ怒《おこ》るとなると、勘高《かんだか》い声で人の胸にささるような口をきくのも止《や》めてしまって、黙《だま》って何も言わなくなり、こちらに対って眼は開《あ》いていても物を見ないかのようになる。それが今日《きょう》の今のような調子合《ちょうしあい》だ。妙《みょう》なところに夫は坐《すわ》り込《こ》んだ。細工場《さいくば》、それは土間になっているところと、居間とが続いている、その居間の端《はし》、一段低くなっている細工場を、横にしてそっちを見ながら坐ったのである。仕方がない、そこへ茶をもって行った。熱いもぬるいも知らぬような風に飲んだ。顔色《かおいろ》が冴《さ》えない、気が何かに粘《ねば》っている。自分に対して甚しく憎悪《ぞうお》でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、
「どうかなさいましたか。」
と訊《き》く。返辞が無い。
「気色《きしょく》が悪いのじゃなくて。」
とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、
「何とも無い。」
 附《つ》き穂《ほ》が無いという返辞の仕方だ。何とも無いと云われても、どうも何か有るに違《ちが》い無い。内《うち》の人の身分が好《よ》くなり、交際《こうさい》が上って来るにつけ、わたしが足らぬ、つり合い足らぬと他の人達に思われ云われはせぬかという女気《おんなぎ》の案じがなくも無いので、自分の事かしらんとまたちょっと疑《うたぐ》ったが、どうもそうでも無いらしい。
 定《き》まって晩酌《ばんしゃく》を取るというのでもなく、もとより謹直《きんちょく》倹約《けんやく》の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌《きら》いなのではあるが、それでも少し飲むと賑《にぎ》やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、
「晩には何か取りまして、ひさしぶりで一本あげましょうか。」
と云った。近来|大《おおい》に進歩して、細君はこの提議《ていぎ》をしたのである。ところが、
「なぜサ。」
と善良な夫は反問の言外に明らかにそんなことはせずとよいと否定《ひてい》してしまった。是非《ぜひ》も無い、簡素《かんそ》な晩食《ばんしょく》は平常《いつも》の通りに済《す》まされたが、主人の様子は平常《いつも》の通りでは無かった。激《げき》しているのでも無く、怖《おそ》れているのでも無いらしい。が、何かと談話《だんわ》をしてその糸口《いとぐち》を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠《そうこう》の妻たる夫思いの細君はついに堪《こら》えかねて、真正面から、
「あなたは今日はどうかなさったの。」
と逼《せま》って訊いた。
「どうもしない。」
「だって。……わたしの事?」
「ナーニ。」
「それならお勤先の事?」
「ウウ、マアそうサ。」
「マアそうサなんて、変な仰《おっしゃ》り様《よう》ネ。どういうこと?」
「…………」
「辞職?」
と聞いたのは、吾が夫と中村という人とは他の教官達とは全く出《で》が異《ちが》っていて、肌合《はだあい》の職人風のところが引装《ひきつくろ》わしてもどこかで出る、それは学校なんぞというものとは映《うつ》りの悪いことである。それを仲の好い二人《ふたり》が笑って話合っていた折々のあるのを知っていたからである。
「ナーニ。」
「免職《めんしょく》? 御《お》さとし免職ってことが有るってネ。もしか免職なんていうんなら、わたしゃ聴《き》きやしない。あなたなんか、ヤイヤイ云われて貰《もら》われたレッキとした堅気《かたぎ》のお嬢《じょう》さんみたようなもので、それを免職と云えば無理|離縁《りえん》のようなものですからネ。」
「誰も免職とも何とも云ってはいないよ。お先ッ走り! うるさいネ。」
「そんならどうしたの? 誰か高慢《こうまん》チキな意地悪と喧嘩《けんか》でもしたの。」
「イイヤ。」
「そんなら……」
「うるさいね。」
「だって……」
「うるさいッ。」
「オヤ、けんどんですネ、人が一生懸命《いっしょうけんめい》になって訊《き》いてるのに。何でそんなに沈んでいるのです?」
「別に沈んじゃいない。」
「イイエ、沈んでいます。かわいそうに。何でそんなに。」
「かわいそうに、は好かったネ、ハハハハ。」
「人をはぐらかすものじゃありませんよ。ホン気になっているものを。サ、なんで、そんなに……。なんでですよ。」
「ひとりでにカなア。」
「マア! 何も隠《かく》さなくったッていいじゃありませんか。どういう入《い》※[#小書き片仮名リ、1−6−91]訳《わけ》なんですか聴かせて下さい。実はコレコレとネ。女だって、わたしあ、あなたの忠臣《ちゅうしん》じゃありませんか。」
 忠臣という言葉は少し奇異《きい》に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃《じょうるり》なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、
「話せッて云ったって、隠すのじゃ無いが、おんなわらべの知る事ならずサ。」
 浄瑠璃の行われる西の人だったから、主人は偶然《ぐうぜん》に用いた語り物の言葉を用いたのだが、同じく西の人で、これを知っていたところの真率で善良で忠誠な細君はカッとなって瞋《いか》った。が、直《じき》にまた悲痛な顔になって堪《こら》え涙《なみだ》をうるませた。自分の軽視されたということよりも、夫の胸の中《うち》に在るものが真に女わらべの知るには余るものであろうと感じて、なおさら心配に堪《た》えなくなったのである。
 格子戸は一つ格子戸である。しかし明ける音は人々で異る。夫の明けた音は細君の耳には必ず夫の明けた音と聞えて、百に一つも間違《まちが》うことは無い。それが今日は、夫の明けた音とは聞えず、ハテ誰が来たかというように聞えた。今その格子戸を明けるにつけて、細君はまた今更に物を思いながら外へ出た。まだ暮《く》れたばかりの初夏《しょか》の谷中《やなか》の風は上野つづきだけに涼《すず》しく心よかった。ごく懇意《こんい》でありまたごく近くである同じ谷中の夫の同僚《どうりょう》の中村の家を訪《と》い、その細君に立話しをして、中村に吾家《うち》へ遊びに来てもらうことを請《こ》うたのである。中村の細君は、何、あなた、ご心配になるようなことではございますまい、何でもかえってお喜びになるような事がお有りのはずに、チラと承りました、しかし宅《たく》は必ず伺《うかが》わせますよう致《いた》しましょう、と請合《うけあ》ってくれた。同じ立場に在る者は同じような感情を懐《いだ》いて互によく理解し合うものであるから、中村の細君が一も二も無く若崎の細君の云う通りになってくれたのでもあろうが、一つには平常《いつも》同じような身分の出というところからごくごく両家が心安くし合い、また一つには若崎が多くは常に中村の原型によってこれを鋳《い》ることをする芸術上の兄弟分《きょうだいぶん》のような関係から、自然と離《はな》れ難《がた》き仲になっていた故もあったろう。若崎の細君《さいくん》はいそいそとして帰った。

     ○

 顔も大きいが身体《からだ》も大きくゆったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚《あごひげ》上髭《うわひげ》頬髯《ほおひげ》を無遠慮《ぶえんりょ》に生《は》やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚《おうよう》にまださほどは居ぬ蚊《か》を吾家《うち》から提《さ》げた大きな雅《が》な団扇《うちわ》で緩
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