定《き》まって晩酌《ばんしゃく》を取るというのでもなく、もとより謹直《きんちょく》倹約《けんやく》の主人であり、自分も夫に酒を飲まれるようなことは嫌《きら》いなのではあるが、それでも少し飲むと賑《にぎ》やかに機嫌好くなって、罪も無く興じる主人である。そこで、
「晩には何か取りまして、ひさしぶりで一本あげましょうか。」
と云った。近来|大《おおい》に進歩して、細君はこの提議《ていぎ》をしたのである。ところが、
「なぜサ。」
と善良な夫は反問の言外に明らかにそんなことはせずとよいと否定《ひてい》してしまった。是非《ぜひ》も無い、簡素《かんそ》な晩食《ばんしょく》は平常《いつも》の通りに済《す》まされたが、主人の様子は平常《いつも》の通りでは無かった。激《げき》しているのでも無く、怖《おそ》れているのでも無いらしい。が、何かと談話《だんわ》をしてその糸口《いとぐち》を引出そうとしても、夫はうるさがるばかりであった。サア、まことの糟糠《そうこう》の妻たる夫思いの細君はついに堪《こら》えかねて、真正面から、
「あなたは今日はどうかなさったの。」
と逼《せま》って訊いた。
「どうもしない。」
「だ
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