無いが、何となく和楽《わらく》の満足を示すようなものが見える。その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内《かない》であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾《わ》が身が夫の身のまわりに附《つ》いてまわって夫を扱《あつか》い、衣類を着換《きか》えさせてやったり、坐《ざ》を定めさせてやったり、何にかかにか自分の心を夫に添《そ》わせて働くようになる。それがこの数年の定跡《じょうせき》であった。
 ところが今日《きょう》はどういうものであろう。その一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]眼が自分には全く与《あた》えられなかった。夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価《あたい》がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一※[#小書き片仮名ト、1−6−81]眼が貴《たっと》いものであったことが悟《さと》られた。と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋《さび》しい不安
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