無い。君の熔金《ゆ》の廻りがどんなところで足る足らぬが出来るのも同じことである。万一|異《い》なところから木理がハネて、釣合《つりあい》を失えば、全体が失敗になる。御前でそういうことがあれば、何とも仕様は無いのだ。自分の不面目はもとより、貴人のご不興も恐多いことでは無いか。」
ここまで説かれて、若崎は言葉も出せなくなった。何の道にも苦《くるし》みはある。なるほど木理は意外の業《わざ》をする。それで古来木理の無いような、粘《ねば》りの多い材、白檀《びゃくだん》、赤檀《しゃくだん》の類を用いて彫刻《ちょうこく》するが、また特に杉檜《すぎひのき》の類、刀《とう》の進みの早いものを用いることもする。御前彫刻などには大抵《たいてい》刀の進み易《やす》いものを用いて短時間に功を挙《あ》げることとする。なるほど、火、火とのみ云って、火の芸術のみを難儀《なんぎ》のもののように思っていたのは浅はかであったと悟った。
「なるほど。何の道にも苦しい瀬戸《せと》はある。有難い。お蔭で世界を広くしました。」
と心からしみじみ礼を云って頭《かしら》を畳《たたみ》へすりつけた。中村も悦《よろこ》ばしげに謝意を受けた。
「ところで若崎さん、御前細工というものは、こういう難儀なものなのに相違無いが、木彫その他の道において、御前細工に不首尾のあったことはかつて無い。徳川《とくがわ》時代、諸大名《しょだいみょう》の御前で細工事《さいくごと》ご覧に入れた際、一度でも何の某《なにがし》があやまちをしてご不興を蒙《こうむ》ったなどということは聞いたことが無い。君はどう思う。わかりますか。」
これには若崎はまた驚《おどろ》かされた。
「一度もあやまちは無かった!」
「さればサ。功名《こうみょう》手柄《てがら》をあらわして賞美を得た話は折々あるが、失敗した談はかつて無い。」
自分は今天覧の場合の失敗を恐れて骨を削《けず》り腸《はらわた》を絞《しぼ》る思をしているのである。それに何と昔からさような場合に一度のあやまちも無かったとは。
「ムーッ。」
と若崎は深い深い考に落ちた。心は光りの飛ぶごとくにあらゆる道理の中を駈巡《かけめぐ》ったが、何をとらえることも出来無かった。ただわずかに人の真心――誠《まこと》というものの一切に超越《ちょうえつ》して霊力《れいりょく》あるものということを思い得て、
「一心の誠というものは、それほどまでに強いものでしょうかナア。」
と真顔になって尋ねた。中村はニヤリと笑った。
「誠はもとより尊《たっと》い。しかし準備もまた尊いよ。」
若崎には解釈出来なかった。
「竜《りゅう》なら竜、虎《とら》なら虎の木彫をする。殿様《とのさま》御前《ごぜん》に出て、鋸《のこぎり》、手斧《ちょうな》、鑿《のみ》、小刀を使ってだんだんとその形を刻《きざ》み出《いだ》す。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕《あと》を無くすことが出来る。時刻が相応に移る。いかに物好な殿にせよ長くご覧になっておらるる間には退屈《たいくつ》する。そこで鱗《うろこ》なら鱗、毛なら毛を彫って、同じような刀法を繰返《くりかえ》す頃になって、殿にご休息をなさるよう申す。殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りおいたる竜なら竜、虎なら虎をそこに置き、前の彫りかけを隠《かく》しおく。殿|復《ふたた》びお出ましの時には、小刀を取って、危気《あぶなげ》無きところを摩《な》ずるように削り、小々《しょうしょう》の刀屑《かたなくず》を出し、やがて成就の由《よし》を申し、近々ご覧に入るるのだ。何の思わぬあやまちなどが出来よう。ハハハ。すりかえの謀計《ぼうけい》である。君の鋳物などは最後は水桶《みずおけ》の中で型の泥《どろ》を割って像を出すのである。準備さえ水桶の中に致しておけば、容易に至難《しなん》の作品でも現わすことが出来る。もとより同人の同作、いつわり、贋物《がんぶつ》を現わすということでは無い。」
と低い声で細々《こまごま》と教えてくれた。若崎は唖然《あぜん》として驚いた。徳川期にはなるほどすべてこういう調子の事が行われたのだなと暁《さと》って、今更ながら世の清濁《せいだく》の上に思を馳《は》せて感悟《かんご》した。
「有難うございました。」
と慄《ふる》えた細い声で感謝した。
その夜若崎は、「もう失敗しても悔《く》いない。おれは昔の怜悧者《りこうもの》ではない。おれは明治《めいじ》の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟《ひっきょう》は認《みと》めて下さることを疑わない」と、安心《あんしん》立命《りつめい》の一境地に立って心中に叫んだ。
○
天皇《てんの
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