ない不必要なことを饒舌《しゃべ》り出して、それが自分の才能ででもあるような顔をするものだが、この細君は夫の厳《きび》しい教育を受けてか、その性分からか、幸《さいわい》にそういうことは無い人であった。純粋《じゅんすい》な感謝《かんしゃ》の念の籠《こも》ったおじぎを一つボクリとして引退《ひきさが》ってしまった。主人はもっと早く引退ってもよかったと思っていたらしく、客もまたあるいはそうなのか、細君が去ってしまうとかえって二人は解放されたような様子になった。
「君のところへ呼《よ》びに行きはしなかったかネ。もしそうだったら勘弁《かんべん》してくれたまえ。」
「ム。ハハハ。ナニ、ちょうど、話しに来ようと思っていたのサ。」
 主客の間にこんな挨拶が交されたが、客は大きな茶碗《ちゃわん》の番茶をいかにもゆっくりと飲乾《のみほ》す、その間主人の方を見ていたが、茶碗を下へ置くと、
「君は今日最初辞退をしたネ。」
と軽く話し出した。
「エエ。」
と主人は答えた。
「なぜネ。」
「なぜッて。イヤだったからです。」
「御前へ出るのにイヤってことはあるまい。」
 ホンの会話的の軽い非難だったが、答えは急遽《せわ》しかった。
「御前へ出るのにイヤの何のと、そんな勿体《もったい》ないことは夢にも思いません。だから校長に負けてしまいました。」
「ハハア、校長のいいつけがイヤだったのだネ。」
「そうです。だがもう私がすぐに負けてしまったのだから論はありません。」
「負けた負けたというのが変に聞えるよ。分らないネ。校長が別に無理なことを云ったとも私には思えないが。私も校長のいいつけで御前製作をして、面目《めんぼく》をほどこしたことのあるのは君も知っててくれるだろうに。」
と、少し面《おもて》をあげて鬚をしごいた。少し兄分|振《ぶ》っているようにも見えた。しかし若崎の何か勘ちがいをした考《かんがえ》を有《も》っているらしい蒙《もう》を啓《ひら》いてやろうというような心切《しんせつ》から出た言葉に添った態度だったので、いかにも教師くさくは見えたが、威張《いば》っているとは見えなかった。
 若崎は話しの流れ方の勢《いきおい》で何だか自分が自分を弁護《べんご》しなければならぬようになったのを感じたが、貧乏神《びんぼうがみ》に執念《しゅうね》く取憑《とりつ》かれたあげくが死神にまで憑かれたと自ら思ったほどに浮世
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