言葉は何も出さなかったが、眼の中《うち》には威《い》をあらわした。言葉が発されたなら明らかにそれは拒絶の言葉でなくて、何の言葉がその眼の中の或物に伴なおうやと感じられた。仕方がないから自分は自分の意を徹しようとするために再び言葉を費さざるを得なかった。
 兄さん、失敬なことを言う勝手な奴だと怒ってくれないでおくれ。お前の竿の先の見当の真直《まっすぐ》のところを御覧。そら彼処《あすこ》に古い「出し杭《ぐい》」が列《なら》んで、乱杭《らんぐい》になっているだろう。その中の一本の杭の横に大きな南京釘《ナンキンくぎ》が打ってあるのが見えるだろう。あの釘はわたしが打ったのだよ。あすこへ釘を打って、それへ竿をもたせると宜いと考えたので、わたしが家《うち》から釘とげんのうとを持って来て、わざわざ舟を借りて彼処《あすこ》へ行って、そして考え定めたところへあの釘を打ったのだよ。それから此処《ここ》へ来る度《たび》にわたしはあの釘へわたしの竿を掛けてあの乱杭の外へ鉤を出して釣るのだよ。で、また私は釣れた日でも釣れない日でも、帰る時にはきっと何時《いつ》でも持って来た餌《えさ》を土と一つに捏《こ》ね丸めて炭団《たどん》のようにして、そして彼処《あすこ》を狙って二つも三つも抛《ほう》り込んでは帰るのだよ。それは水の流れの上[#(ゲ)]下[#(ゲ)]に連れて、その土が解け、餌が出る、それを魚《さかな》が覚えて、そして自然に魚を其処《そこ》へ廻って来させようというためなのだよ。だからこういう事をお前に知らせるのは私に取って得《とく》なことではないけれども、わたしがそれだけの事を彼処《あすこ》に対してしてあるのだから、それが解ったらわたしに其処《そこ》を譲ってくれても宜《い》いだろう。お前の竿では其処《そこ》に坐っていても別に甲斐があるものでもないし、かえって二間ばかり左へ寄って、それ其処《そこ》に小さい渦《うず》が出来ているあの渦の下端《したば》を釣った方が得がありそうに思うよ。どうだネ、兄さん、わたしはお前を欺《だま》すのでも強いるのでもないのだよ。たってお前が其処《そこ》を退《ど》かないというのなら、それも仕方はないがネ、そんな意地悪にしなくても好いだろう、根が遊びだからネ。
と言って聴かせている中《うち》に、少年の眼の中《うち》は段※[#二の字点、1−2−22]に平和になって来た。しかし末に至って自分は明らかにまた新《あらた》に失敗した。少年は急に不機嫌になった。
 小父《おじ》さんが遊びだとって、俺が遊びだとは定《きま》ってやしない。
と癇《かん》に触ったらしく投付けるようにいった。なるほどこれは悪意で言ったのではなかったが、己《おのれ》を以《もっ》て人を律するというもので、自分が遊びでも人も遊びと定まっている理はないのであった。公平を失った情懐《じょうかい》を有《も》っていなかった自分は一本打込まれたと是認しない訳には行かなかった。が、この不完全な設備と不満足な知識とを以て川に臨んでいる少年の振舞が遊びでなくてそもそも何であろう。と驚くと同時に、遊びではないといっても遊びにもなっておらぬような事をしていながら、遊びではないように高飛車に出た少年のその無智無思慮を自省せぬ点を憫笑《びんしょう》せざるを得ぬ心が起ると、殆どまた同時に引続いてこの少年をして是《かく》の如き語を突嗟《とっさ》に発するに至らしめたのは、この少年の鋭い性質からか、あるいはまた或事情が存在して然《しか》らしむるものあってか、と驚かされた。
 この驚愕は自分をして当面の釣場の事よりは自分を自分の心裏に起った事に引付けたから、自分は少年との応酬を忘れて、少年への観察を敢《あえ》てするに至った。
 参った。そりゃそうだった。何もお前遊びとは定《き》まっていなかったが……
と、ただ無意識で正直な挨拶をしながら、自分は凝然《じっ》と少年を見詰めていた。その間《あいだ》に少年は自分が見詰められているのも何にも気が着かないのであろう、別に何らの言語も表情もなく、自分の竿を挙げ、自分の坐をわたしに譲り、そして教えてやった場処に立って、その鉤を下《おろ》した。
 ヤ、有難う。
と自分は挨拶して、乱杭のむこうに鉤を投じ、自分の竿を自分の打った釘に載せて、静かに竿頭《さおさき》を眺めた。
 少年も黙っている。自分も黙っている。日の光は背に熱いが、川風は帽の下にそよ吹く。堤後《ていご》の樹下《じゅか》に鳴いているのだろう、秋蝉《あきぜみ》の声がしおらしく聞えて来た。
 潮は漸《ようや》く動いて来た。魚《うお》はまさに来らんとするのであるがいまだ来ない。川向うの蘆洲《ろしゅう》からバン鴨《がも》が立って低く飛んだ。
 少年はと見ると、干極《そこり》と異なって来た水の調子の変化に、些細の板沈子《いたおもり》と折箸《おればし》の浮子《うき》とでは、うまく安定が取れないので、時※[#二の字点、1−2−22]竿を挙げては鉤を打返《うちかえ》している。それは座を易《か》えたためではないのであるが、そう思っていられると思うと不快で仕方がない。で、自分は声を掛けた。
 兄さん、此処《ここ》は潮《しお》の突掛《つっか》けて来るところだからネ、浮子釣《うきづり》ではうまく行かないよ。沈子釣《おもりづり》におしよ。
 浮子釣では釣れないかい。
 釣れないとは限らないが、も少し潮が利いて来たら餌がフラフラし過ぎるし、釣《つり》づらくて仕方がないだろう。
 今でも釣りづらいよ。
 そうだろう。沈子を持っていないなら、此処《ここ》へおいで。沈子もあげようし、シカケも直してあげよう。
 沈子をくれる?
 ああ。
 自分の気持も坦夷《たんい》で、決して親切でないものではなかった。それが少年に感知されたからであろう、少年も平和で、そして感謝に充ちた安らかな顔をして、竿を挙げてこちらへやって来た。はじめてこの時少年の面貌|風采《ふうさい》の全幅を目にして見ると、先刻《さっき》からこの少年に対して自分の抱いていた感想は全く誤っていて、この少年もまた他の同じ位の年齢の児童と同様に真率で温和で少年らしい愛らしい無邪気な感情の所有者であり、そしてその上に聡明さのあることが感受された。その眼は清らかに澄み、その面《おもて》は明らかに晴れていた。自分は小嚢《こぶくろ》から沈子《おもり》を出して与え、かつそのシカケを改めて遣《や》ろうとした。ところが少年は、
 いいよ、僕、出来るから。
といって、自《みずか》らシカケを直した。一[#(ト)]通りの沈子釣《おもりづり》の装置の仕方ぐらいは知っているのであったが、沈子のなかったために浮子釣《うきづり》をしていたのであったことが知られた。
 少年の用いていた餌はけだし自分で掘取ったらしい蚯蚓《みみず》であったから、聊《いささ》かその不利なことが気の毒に感じられた。で、自分の餌桶を指示《さししめ》して、
 この餌を御使いよ、それでは魚《さかな》の中《あた》りが遠いだろうから。
 少年は遠慮した様子をちょっと見せたが、それでも餌の事も知っていたと見えて、嬉しそうな顔になって餌を改めた。が、僅《わずか》に一匹の虫を鉤《はり》に着けたに過ぎなかったから、
 もっとお着け、魚は餌で釣るのだからネ。
 少年はまた二匹ばかり着け足した。
 今まで何処《どこ》で釣っていたのだい、此処《ここ》は浮子釣りなんぞでは巧《うま》く行かない場だよ。
 今までは奥戸の池で釣ってたよ、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も。
 釣れたかい。
 ああ、鮒《ふな》が七、八匹。
 奥戸というのは対岸で、なるほどそこには浮子釣に適すべき池があることを自分も知っていた。しかし今時分の鮒を釣っても、それが釣という遊びのためでなくって何の意味を為そう。桜の花頃から菊の花過ぎまでの間の鮒は全く仕方のないものである。自分には合点が行かなかったから、
 遊びじゃないように先刻《さっき》お言いだったが、今の鮒なんか何にもなりはしない、やっぱり遊びじゃないか。
というと、少年は急に悲しそうな顔をして気色《けしき》を曇らせたが、
 でも僕には鮒のほかのものは釣れそうに思えなかったからネ。お相撲《すもう》さんの舟に無銭《ただ》で乗せてもらって往還《ゆきかえ》りして彼処《あすこ》で釣ったのだよ。
 無銭《ただ》で乗せてもらっての一語は偶然にその実際を語ったのだろうが、自分の耳に立って聞えた。お相撲さんというのは、当時奥戸の渡船守《わたしもり》をしていた相撲|上《あが》りの男であったのである。少年の談《はなし》の中には裏面に何か存していることが明白に知られた。
 そうかい。そしてまた今日はどうして此処《ここ》へ来たのだい。
 だってせっかく釣って帰っても、今|小父《おじ》さんの言った通りにネ、昨日《きのう》は、こんな鮒なんか不味《まず》くて仕様がない、も少し気の利いた魚でも釣って来いって叱られたのだもの。
 誰に。
 お母《っか》さんに。
 じゃお母《っか》さんに吩咐《いいつけ》られて釣に出ているのかい。
 アア。下《くだ》らなく遊んでいるより魚でも釣って来いッてネ。僕下らなく遊んでいたんじゃない、学校の復習や宿題なんかしていたんだけれど。
 ここに至って合点が出来た。油然《ゆうぜん》として同情心が現前《まのあたり》の川の潮のように突掛《つっか》けて来た。
 ムムウ。ほんとのお母《っか》さんじゃないネ。
 少年は吃驚《びっくり》して眼を見張って自分の顔を見た。が、急に無言になって、ポックリちょっと頭《かしら》を下げて有難うという意を表したまま、竿を持って前の位置に帰った。その時あたかも自分の鉤に魚《うお》が中《あた》った。型の好いセイゴが上《あが》って来た。
 少年は羨《うらや》ましそうに予《よ》の方を見た。
 続いてまた二|尾《ひき》、同じようなのが鉤《はり》に来た。少年は焦《あせ》るような緊張した顔になって、羨《うらやま》しげに、また少しは自分の鉤に何も来ぬのを悲しむような心を蔽いきれずに自分の方を見た。
 しばらく彼も我も無念《しん》になって竿先を見守ったが、魚の中《あた》りはちょっと途断《とだ》えた。
 ふと少年の方を見ると、少年はまじまじと予の方を見ていた。何か言いたいような風であったが、談話の緒《ちょ》を得ないというのらしい、ただ温和な親しみ寄りたいというが如き微笑を幽《かすか》に湛《たた》えて予と相見た。と同時に予は少年の竿先に魚の来《きた》ったのを認めた。
 ソレ、お前の竿に何か来たよ。
 警告すると、少年は慌《あわ》てて向直ったが早いか敏捷に巧い機《しお》に竿を上げた。かなり重い魚であったが、引上げるとそれは大きな鮒であった。小さい畚《ふご》にそれを入れて、川柳の細い枝を折取って跳出《はねだ》さぬように押え蔽った少年は、その手を小草《おぐさ》でふきながら予の方を見て、
 小父《おじ》さん、また餌をくれる?
と如何にも欲しそうに言った。
 アア、あげる。
 少年は竿を手にして予の傍《かたえ》へ来た。
 好《い》い鮒だったネ。
 よくっても鮒だから。せっかく此処《ここ》へ来たんだけれどもネエ。
と失望した口ぶりには、よくよく鮒を得たくない意《こころ》で胸が一《いっ》パイになっているのを現わしていた。
 どうもお前の竿では、わんどの内側しか釣れないのだから。
と慰めてやった。わんどとは水の彎曲した半円形をいうのだ。が、かえってそれは少年に慰めにはならずに決定的に失望を与えたことになったのを気づいた途端に、予の竿先は強く動いた。自分はもう少年には構っていられなくなった。竿を手にして、一心に魚のシメ込《こみ》を候《うかが》った。魚は式《かた》の如くにやがて喰総《くいし》めた。こっちは合せた。むこうは抵抗した。竿は月の如くになった。綸《いと》は鉄線《はりがね》の如くになった。水面に小波《さざなみ》は立った。次いでまた水の綾《あや》が乱れた。しかし終《つい》に魚は狂い疲れた。その白い平《ひら》を見せる段になってとうとうこっちへ引寄せられた。その時
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング