に寝転がって、たまたま得た何かを雑記帳に一行二行記しつけたりして毎日|楽《たのし》んだ。特《こと》にその幾日というものは其処《そこ》で好い漁をしたので、家を出る時には既に西袋の景を思浮《おもいうか》べ、路を行く時にも早く雲影水光《うんえいすいこう》のわが前にあるが如き心地さえしたのであった。
その日も午前から午後へかけて少し頭の疲れる難読の書を読んだ後であった。その書を机上に閉じて終《しま》って、半盞《はんさん》の番茶を喫了《きつりょう》し去ってから、
また行ってくるよ。
と家内に一言《いちごん》して、餌桶《えさおけ》と網魚籠《あみびく》とを持って、鍔広《つばびろ》の大麦藁帽《おおむぎわらぼう》を引冠《ひっかぶ》り、腰に手拭《てぬぐい》、懐《ふところ》に手帳、素足に薄くなった薩摩下駄《さつまげた》、まだ低くならぬ日の光のきらきらする中を、黄金《こがね》色に輝く稲田《いなだ》を渡る風に吹かれながら、少し熱いとは感じつつも爽《さわや》かな気分で歩き出した。
川近くなって、田舎道の辻の或|腰掛茶店《こしかけぢゃや》に立寄った。それは藤の棚の茶店《ちゃや》といって、自然に其処《そこ》にある古い藤の棚、といってさまで大きくもないが、それに店の半分は掩《おお》われているので人※[#二の字点、1−2−22]にそう呼びならされている茶店《ちゃや》である。路行く人や農夫や行商や、野菜の荷を東京へ出した帰りの空車《からぐるま》を挽《ひ》いた男なんどのちょっと休む家《うち》で、いわゆる三文菓子《さんもんがし》が少しに、余り渋くもない茶よりほか何を提供するのでもないが、重宝になっている家《うち》なのだ。自分も釣の往復《ゆきかえ》りに立寄って顔馴染《かおなじみ》になっていたので、岡釣《おかづり》に用いる竿の継竿《つぎざお》とはいえ三|間半《げんはん》もあって長いのをその度※[#二の字点、1−2−22]《たびたび》に携えて往復するのは好ましくないから、此家《ここ》へ頼んで預けて置くことにしてあった。で、今|行掛《ゆきがけ》に例の如く此家《ここ》へ寄って、
やあ、今日は、また来ました。
と挨拶して、裏へ廻って自《みずか》ら竿を取出して※[#「てへん+黨」、第3水準1−85−7]網《たま》と共に引担《ひっかつ》いで来ると、茶店《ちゃや》の婆さんは、
おたのしみなさいまし。好いのが出ましたら些《ちと》御福分《おふくわ》けをなすって下さいまし。
と笑って世辞《せじ》をいってくれた。その言葉を背中に聴かせながら、
ああ、宜《い》いとも。だがまだボク釣師だからね、ハハハ。
と答えてサッサと歩くと、
でもアテにして待ってますよ、ハハハ。
と背後《うしろ》から大きな声で、なかなか調子が好い。世故《せこ》に慣れているというまででなくても善良の老人は人に好い感じを持たせる、こういわれて悪い気はしない。駄馬にも篠《しの》の鞭《むち》、という格《かく》で、少しは心に勇みを添えられる。勿論《もちろん》未熟者という意味のボク釣師と自《みずか》ら言ったのは謙遜的で、内心に下手《へた》釣師と自ら信じている釣客《ちょうかく》はないのであるし、自分もこの二日ばかりは不結果だったが、今日は好い結果を得たいと念じていたのである。
場処《ばしょ》へ着いた。と見ると、いつも自分の坐るところに小さな児《こ》がチャンと坐っていた。汚れた手拭で頬冠《ほおかむ》りをして、大人《おとな》のような藍《あい》の細かい縞物《しまもの》の筒袖単衣《つつそでひとえ》の裙短《すそみじか》なのの汚れかえっているのを着て、細い手脚《てあし》の渋紙《しぶかみ》色なのを貧相にムキ出して、見すぼらしく蹲《しゃが》んでいるのであった。東京者ではない、田舎の此辺《ここら》の、しかも余り宜《よ》い家《うち》でない家の児であるとは一目に思い取られた。髪の毛が伸び過ぎて領首《えりくび》がむさくなっているのが手拭の下から見えて、そこへ日がじりじり当っているので、細い首筋の赤黒いところに汗が沸《に》えてでもいるように汚らしく少し光っていた。傍《そば》へ寄ったらプンと臭そうに思えたのである。
自分は自分のシカケを取出して、穂竿《ほざお》の蛇口《へびくち》に着け、釣竿を順に続《つな》いで釣るべく準備した。シカケとは竿以外の綸《いと》その他の一具《いちぐ》を称する釣客の語である。その間にチョイチョイ少年の方を見た。十二、三歳かと思われたが、顔がヒネてマセて見えるのでそう思うのだが、実は十一か高※[#二の字点、1−2−22]《たかだか》十二歳位かとも思われた。黙ってその児はシンになって浮子《うき》を見詰めて釣っている。潮《しお》は今ソコリになっていてこれから引返《ひっかえ》そうというところであるから、水も動かず浮子も流れないが、見る
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