とその浮子も売物浮子《うりものうき》ではない、木の箸《はし》か何ぞのようなものを、明らかに少年の手わざで、釣糸に徳利《とっくり》むすびにしたのに過ぎなかった。竿も二|間《けん》ばかりしかなくて、誰かのアガリ竿を貰いか何ぞしたのであろうか、穂先が穂先になってない、けだし頭が三、四寸折れて失《う》せて終《しま》ったものである。
 この児は釣に慣れていない。第一|此処《ここ》は浮子釣《うきづり》に適していない場である。やがて潮が動き出せば浮子は沈子《おもり》が重ければ水に撓《しお》られて流れて沈んで終《しま》うし、沈子が軽ければ水と共に流れて終《しま》うであろう。また二間ばかりの竿では、此処《ここ》では鉤先《はりさき》が好い魚の廻るべきところに達しない。岸近《きしぢか》に廻るホソの小魚《こざかな》しか鉤《はり》には来らぬであろう。とは思ったが、それは小児《こども》の釣であるとすればとかくを言うにも及ばぬことであるとして看過すべきであるから宜《よ》い。ただ自分に取って困ったことはその児の居場処《いばしょ》であった。それは自分が坐りたい処である。イヤ坐らねばならぬところである、イヤ当然坐るべきところである、ということであった。
 自分が魚餌《えさ》を鉤《はり》に装《よそお》いつけた時であった。偶然に少年は自分の方に面《おもて》を向けた。そして紅桃色《こうとうしょく》をしたイトメという虫を五匹や六匹ではなく沢山に鉤に装うところを看詰《みつ》めていた。その顔はただ注意したというほかに何の表情があるのではなかった。しかし思いのほかに目鼻立《めはなだち》の整った、そして怜悧《りこう》だか気象が好いか何かは分らないが、ただ阿呆《あほ》げてはいない、狡《こす》いか善良かどうかは分らないが、ただ無茶ではない、ということだけは読取《よみと》れた。
 少し気の毒なような感じがせぬではなかったが、これが少年でなくて大人であったなら疾《とっ》くに自分は言出すはずのことだったから、仕方がないと自分に決めて、
 兄さん、済まないけれどもネ、お前の坐っているところを、右へでも左へでも宜いから、一間半か二間ばかり退《ど》いておくれでないか。そこは私が坐るつもりにしてあるところだから。
と、自分では出来るだけ言葉を柔《やさ》しくして言ったのであった。
 すると少年の面上には明らかに反抗の色が上《あが》った。言葉は何も出さなかったが、眼の中《うち》には威《い》をあらわした。言葉が発されたなら明らかにそれは拒絶の言葉でなくて、何の言葉がその眼の中の或物に伴なおうやと感じられた。仕方がないから自分は自分の意を徹しようとするために再び言葉を費さざるを得なかった。
 兄さん、失敬なことを言う勝手な奴だと怒ってくれないでおくれ。お前の竿の先の見当の真直《まっすぐ》のところを御覧。そら彼処《あすこ》に古い「出し杭《ぐい》」が列《なら》んで、乱杭《らんぐい》になっているだろう。その中の一本の杭の横に大きな南京釘《ナンキンくぎ》が打ってあるのが見えるだろう。あの釘はわたしが打ったのだよ。あすこへ釘を打って、それへ竿をもたせると宜いと考えたので、わたしが家《うち》から釘とげんのうとを持って来て、わざわざ舟を借りて彼処《あすこ》へ行って、そして考え定めたところへあの釘を打ったのだよ。それから此処《ここ》へ来る度《たび》にわたしはあの釘へわたしの竿を掛けてあの乱杭の外へ鉤を出して釣るのだよ。で、また私は釣れた日でも釣れない日でも、帰る時にはきっと何時《いつ》でも持って来た餌《えさ》を土と一つに捏《こ》ね丸めて炭団《たどん》のようにして、そして彼処《あすこ》を狙って二つも三つも抛《ほう》り込んでは帰るのだよ。それは水の流れの上[#(ゲ)]下[#(ゲ)]に連れて、その土が解け、餌が出る、それを魚《さかな》が覚えて、そして自然に魚を其処《そこ》へ廻って来させようというためなのだよ。だからこういう事をお前に知らせるのは私に取って得《とく》なことではないけれども、わたしがそれだけの事を彼処《あすこ》に対してしてあるのだから、それが解ったらわたしに其処《そこ》を譲ってくれても宜《い》いだろう。お前の竿では其処《そこ》に坐っていても別に甲斐があるものでもないし、かえって二間ばかり左へ寄って、それ其処《そこ》に小さい渦《うず》が出来ているあの渦の下端《したば》を釣った方が得がありそうに思うよ。どうだネ、兄さん、わたしはお前を欺《だま》すのでも強いるのでもないのだよ。たってお前が其処《そこ》を退《ど》かないというのなら、それも仕方はないがネ、そんな意地悪にしなくても好いだろう、根が遊びだからネ。
と言って聴かせている中《うち》に、少年の眼の中《うち》は段※[#二の字点、1−2−22]に平和になって来た。しかし
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