蘆声
幸田露伴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)距《さ》る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心身|共《とも》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)上[#(ゲ)]下[#(ゲ)]
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 今を距《さ》ること三十余年も前の事であった。
 今において回顧すれば、その頃の自分は十二分の幸福というほどではなくとも、少くも安康《あんこう》の生活に浸《ひた》って、朝夕《ちょうせき》を心にかかる雲もなくすがすがしく送っていたのであった。
 心身|共《とも》に生気に充ちていたのであったから、毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]の朝を、まだ薄靄《うすもや》が村の田の面《も》や畔《くろ》の樹《き》の梢《こずえ》を籠《こ》めているほどの夙《はや》さに起出《おきで》て、そして九時か九時半かという頃までには、もう一家の生活を支えるための仕事は終えてしまって、それから後はおちついた寛《ゆる》やかな気分で、読書や研究に従事し、あるいは訪客に接して談論したり、午後の倦《う》んだ時分には、そこらを散策したりしたものであった。
 川添いの地にいたので、何時《いつ》となく釣魚《ちょうぎょ》の趣味を合点《がてん》した。何時でも覚えたてというものは、それに心の惹かれることの強いものである。丁度《ちょうど》その頃|一竿《いっかん》を手にして長流に対する味を覚えてから一年かそこらであったので、毎日のように中川《なかがわ》べりへ出かけた。中川沿岸も今でこそ各種の工場の煙突や建物なども見え、人の往来《ゆきき》も繁く人家も多くなっているが、その時分は隅田川《すみだがわ》沿いの寺島《てらじま》や隅田《すみだ》の村※[#二の字点、1−2−22]でさえさほどに賑《にぎ》やかではなくて、長閑《のどか》な別荘地的の光景を存していたのだから、まして中川沿い、しかも平井橋《ひらいばし》から上《かみ》の、奥戸《おくど》、立石《たていし》なんどというあたりは、まことに閑寂《かんじゃく》なもので、水ただ緩《ゆる》やかに流れ、雲ただ静かに屯《たむろ》しているのみで、黄茅白蘆《こうぼうはくろ》の洲渚《しゅうしょ》、時に水禽《すいきん》の影を看《み》るに過ぎぬというようなことであった。釣《つり》も釣でおもしろいが、自分はその平野の中の緩い流れの附近の、平凡といえば平凡だが、何ら特異のことのない和易《わい》安閑たる景色を好もしく感じて、そうして自然に抱《いだ》かれて幾時間を過すのを、東京のがやがやした綺羅《きら》びやかな境界《きょうがい》に神経を消耗《しょうこう》させながら享受する歓楽などよりも遥《はるか》に嬉《うれ》しいことと思っていた。そしてまた実際において、そういう中川べりに遊行《ゆぎょう》したり寝転んだりして魚《うお》を釣ったり、魚の来ぬ時は拙《せつ》な歌の一句半句でも釣り得てから帰って、美しい甘《うま》い軽微の疲労から誘われる淡い清らな夢に入ることが、翌朝のすがすがしい眼覚めといきいきした力とになることを、自然|不言不語《ふげんふご》に悟らされていた。
 丁度秋の彼岸《ひがん》の少し前頃のことだと覚えている。その時分毎日のように午後の二時半頃から家を出《い》でては、中川べりの西袋《にしぶくろ》というところへ遊びに出かけた。西袋も今はその辺に肥料会社などの建物が見えるようになり、川の流れのさまも土地の様子も大《おおい》に変化したが、その頃はあたりに何があるでもない江戸がたの一曲湾《いちきょくわん》なのであった。中川は四十九曲《しじゅうくまが》りといわれるほど蜿蜒《えんえん》屈曲して流れる川で、西袋は丁度西の方、即ち江戸の方面へ屈曲し込んで、それからまた東の方へ転じながら南へ行くところで、西へ入って袋の如くになっているから西袋という称《しょう》も生じたのであろう。水は湾※[#二の字点、1−2−22]《わんわん》と曲り込んで、そして転折して流れ去る、あたかも開いた扇の左右の親骨を川の流れと見るならばその蟹目《かにめ》のところが即ち西袋である。そこで其処《そこ》は釣綸《つりいと》を垂れ難い地ではあるが、魚は立廻ることの多い自然に岡釣《おかづ》りの好適地である。またその堤防の草原《くさはら》に腰を下して眸《ひとみ》を放てば、上流からの水はわれに向って来り、下流の水はわれよりして出づるが如くに見えて、心持の好い眺めである。で、自分は其処《そこ》の水際《みずぎわ》に蹲《うずくま》って釣ったり、其処《そこ》の堤上《ていじょう》
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