予の後《しりえ》にあって※[#「てへん+黨」、第3水準1−85−7]網《たま》を何時《いつ》か手にしていた少年は機敏に突《つ》とその魚を撈《すく》った。
魚は言うほどもないフクコであったが、秋下《あきくだ》りのことであるし、育ちの好いのであったから、二人の膳に上《のぼ》すに十分足りるものであった。少年は今はもう羨《うらや》みの色よりも、ただ少年らしい無邪気の喜色に溢《あふ》れて、頬を染め目を輝かして、如何にも男の児らしい美しさを現わしていた。
それから続いて自分は二|尾《ひき》のセイゴを得たが、少年は遂に何をも得なかった。
時は経《た》った。日は堤の陰に落ちた。自分は帰り支度にかかって、シカケを収め、竿を収めはじめた。
少年はそれを見ると、
小父《おじ》さんもう帰るの?
と予に力ない声を掛けたが、その顔は暗かった。
アア、もう帰るよ。まだ釣れるかも知れないが、そんなに慾張っても仕方はないし、潮も好いところを過ぎたからネ。
と自分は答えたが、まだ余っている餌を、いつもなら土に和《あ》えて投げ込むのだけれど、今日はこの児に遺《のこ》そうかと思って、
餌が余っているが、あげようか。
といった。少年は黙って立ってこちらへ来た。しかし彼は餌を盛るべき何物をも持っていなかった。彼は古新聞紙の一片に自分の餌を包《くる》んで来たのであったから。差当って彼も少年らしい当惑の色を浮めたが、予にも好い思案はなかった。イトメは水を保つに足るものの中に入れて置かねば面白くないのである。
やっぱり小父《おじ》さんが先刻《さっき》話したようにした方が宜《い》い。明日《あした》また小父さんに遇《あ》ったら、小父さんその時に少しおくれ。
といって残り惜しそうに餌を見た彼の素直な、そして賢い態度と分別は、少からず予を感動させた。よしんば餌入れがなくて餌を保てぬにしても、差当り使うだけ使って、そこらに捨てて終《しま》いそうなものである。それが少年らしい当然な態度でありそうなものであらねばならぬのである。
お前も今日はもう帰るのかい。
アア、夕方のいろんな用をしなくてはいけないもの。
夕方の家事雑役をするということは、先刻《さっき》の遊びに釣をするのでないという言葉に反映し合って、自分の心を動かさせた。
ほんとのお母《っか》さんでないのだネ。明日《あす》の米を磨いだり、晩の掃除をしたりするのだネ。
彼はまた黙った。
今日も鮒を一|尾《ぴき》ばかり持って帰ったら叱られやしないかネ。
彼は黯然《あんぜん》とした顔になったが、やはり黙っていた。その黙っているところがかえって自分の胸の中《うち》に強い衝動を与えた。
お父《とっ》さんはいるのかい。
ウン、いるよ。
何をしているのだい。
毎日|亀有《かめあり》の方へ通って仕事している。
土工かあるいはそれに類した事をしているものと想像された。
お前のお母《っか》さんは亡くなったのだネ。
ここに至ってわが手は彼の痛処《つうしょ》に触れたのである。なお黙ってはいたが、コックリと点頭《てんとう》して是認した彼の眼の中には露が潤《うる》んで、折から真赤に夕焼けした空の光りが華※[#二の字点、1−2−22]《はなばな》しく明るく落ちて、その薄汚い頬被《ほおかむ》りの手拭、その下から少し洩《も》れている額《ひたい》のぼうぼう生えの髪さき、垢《あか》じみた赭《あか》い顔、それらのすべてを無残に暴露した。
お母《っか》さんは何時《いつ》亡くなったのだい。
去年。
といった時には、その赭い頬に涙の玉が稲葉《いなば》をすべる露のようにポロリと滾転《こんてん》し下《くだ》っていた。
今のお母《っか》さんはお前をいじめるのだナ。
ナーニ、俺が馬鹿なんだ。
見た訳ではないが情態は推察出来る。それだのに、ナーニ、俺が馬鹿なんだ、というこの一語でもって自分の問《とい》に答えたこの児の気の動き方というものは、何という美しさであろう、我《われ》恥かしい事だと、愕然として自分は大《おおい》に驚いて、大鉄鎚《だいてっつい》で打たれたような気がした。釣の座を譲れといって、自分がその訳を話した時に、その訳がすらりと呑込めて、素直に座を譲ってくれたのも、こういう児であったればこそと先刻《さっき》の事を反顧《はんこ》せざるを得なくもなり、また今|残《のこ》り餌《え》を川に投げる方が宜いといったこの児の語も思合《おもいあわ》されて、田野の間《かん》にもこういう性質の美を持って生れる者もあるものかと思うと、無限の感が涌起《ようき》せずにはおられなかった。
自分はもう深入りしてこの児の家の事情を問うことを差控えるのを至当の礼儀のように思った。
では兄さん、この残り餌を土で団《まる》めておくれでないか、なるべく固く団めるの
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