だよ、そうしておくれ。そうしておくれなら、わたしが釣った魚《さかな》を悉皆《すっかり》でもいくらでもお前の宜いだけお前にあげる。そしてお前がお母《っか》さんに機嫌を悪くされないように。そうしたらわたしは大へん嬉しいのだから。
 自分は自分の思うようにすることが出来た。少年は餌の土団子《つちだんご》をこしらえてくれた。自分はそれを投げた。少年は自分の釣った魚《うお》の中からセイゴ二|尾《ひき》を取って、自分に対して言葉は少いが感謝の意は深く謝した。
 二人とも土堤へ上《あが》った。少年は土堤を川上の方へ、自分は土堤の西の方へと下りる訳だ。別れの言葉が交された時には、日は既に収まって、夕風が袂《たもと》凉しく吹いて来た。少年は川上へ堤上を辿《たど》って行った。暮色は漸《ようや》く逼《せま》った。肩にした竿、手にした畚《ふご》、筒袖《つつそで》の裾短《すそみじ》かな頬冠り姿の小さな影は、長い土堤の小草の路のあなたに段※[#二の字点、1−2−22]と小さくなって行く※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]※[#二の字点、1−2−22]然《くくぜん》たるその様。自分は少時《しばらく》立って見送っていると、彼もまたふと振返ってこちらを見た。自分を見て、ちょっと首《かしら》を低くして挨拶したが、その眉目《びもく》は既に分明《ぶんみょう》には見えなかった。五位鷺《ごいさぎ》がギャアと夕空を鳴いて過ぎた。
 その翌日も翌※[#二の字点、1−2−22]日も自分は同じ西袋へ出かけた。しかしどうした事かその少年に復《ふたた》び会うことはなかった。
 西袋の釣はその歳限《としぎ》りでやめた。が、今でも時※[#二の字点、1−2−22]その日その場の情景を想い出す。そして現社会の何処《どこ》かにその少年が既に立派な、社会に対しての理解ある紳士となって存在しているように想えてならぬのである。
[#地から1字上げ](昭和三年十月)



底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第四巻」岩波書店
   1953(昭和28)年3月刊
※「裙短」と「裾短」の混在は、底本通りです。
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2007年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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