は餌で釣るのだからネ。
 少年はまた二匹ばかり着け足した。
 今まで何処《どこ》で釣っていたのだい、此処《ここ》は浮子釣りなんぞでは巧《うま》く行かない場だよ。
 今までは奥戸の池で釣ってたよ、昨日《きのう》も一昨日《おととい》も。
 釣れたかい。
 ああ、鮒《ふな》が七、八匹。
 奥戸というのは対岸で、なるほどそこには浮子釣に適すべき池があることを自分も知っていた。しかし今時分の鮒を釣っても、それが釣という遊びのためでなくって何の意味を為そう。桜の花頃から菊の花過ぎまでの間の鮒は全く仕方のないものである。自分には合点が行かなかったから、
 遊びじゃないように先刻《さっき》お言いだったが、今の鮒なんか何にもなりはしない、やっぱり遊びじゃないか。
というと、少年は急に悲しそうな顔をして気色《けしき》を曇らせたが、
 でも僕には鮒のほかのものは釣れそうに思えなかったからネ。お相撲《すもう》さんの舟に無銭《ただ》で乗せてもらって往還《ゆきかえ》りして彼処《あすこ》で釣ったのだよ。
 無銭《ただ》で乗せてもらっての一語は偶然にその実際を語ったのだろうが、自分の耳に立って聞えた。お相撲さんというのは、当時奥戸の渡船守《わたしもり》をしていた相撲|上《あが》りの男であったのである。少年の談《はなし》の中には裏面に何か存していることが明白に知られた。
 そうかい。そしてまた今日はどうして此処《ここ》へ来たのだい。
 だってせっかく釣って帰っても、今|小父《おじ》さんの言った通りにネ、昨日《きのう》は、こんな鮒なんか不味《まず》くて仕様がない、も少し気の利いた魚でも釣って来いって叱られたのだもの。
 誰に。
 お母《っか》さんに。
 じゃお母《っか》さんに吩咐《いいつけ》られて釣に出ているのかい。
 アア。下《くだ》らなく遊んでいるより魚でも釣って来いッてネ。僕下らなく遊んでいたんじゃない、学校の復習や宿題なんかしていたんだけれど。
 ここに至って合点が出来た。油然《ゆうぜん》として同情心が現前《まのあたり》の川の潮のように突掛《つっか》けて来た。
 ムムウ。ほんとのお母《っか》さんじゃないネ。
 少年は吃驚《びっくり》して眼を見張って自分の顔を見た。が、急に無言になって、ポックリちょっと頭《かしら》を下げて有難うという意を表したまま、竿を持って前の位置に帰った。その時あたかも自分
前へ 次へ
全14ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング