をも言葉をも触れさせないように力《つと》めた。互に相棄てたくない、執着《しゅうじゃく》の心が、世相の実在に反比例して強く働いたからである。
日影の動かない日は有り得ない。其時は来て其影は流れた。力寿は樹の葉が揺れ止んで風の無くなったのが悟られるように、遂に安らかに死んで終《しま》った。定基は自分も共に死んだようになったが、それは一時《いっとき》のことで、死なないものは死ななかった。たしかに生残っていた。別れたのだ。二つが一つになっていた魂が、彼は我を捨て、我は彼に従うことが叶わないで、彼は去り、我は遺ったのであった。ただ茫然《ぼうぜん》漠然としていたのみであった。
生は相憐れみ、死は相捐《あいす》つという諺《ことわざ》がある。其諺通りなら定基は早速に僧を請じ経を誦《じゅ》させ、野辺の送りを営むべきであった。しかし普通の慣例の如くに然様《そう》いう社会事相を進捗《しんちょく》させるには定基の愛着は余りにも深くて、力寿は死んで確かに我を捐てたけれども、我は力寿を捐つるには忍びなかった。簀《さく》を易《か》え机《き》を按《お》き、花を供《くう》し香を焼《た》くような事は僕婢《ぼくひ》の為すがままに任せていたが、僧を喚《よ》び柩《ひつぎ》に斂《おさ》めることは、其命を下さなかったから誰も手をつけるものは無かった。一日過ぎ、二日過ぎた。病気の性の故であったろうか、今既に幾日か過ぎても、面ざし猶《なお》生けるが如くであった。定基は其の傍《かたえ》に昼も居た、夜も臥《ふ》して、やるせない思いに、吾《わ》が身の取置きも吾が心よりとは無く、ただ恍惚《こうこつ》杳渺《ようびょう》と時を過した。古き文に、ここを叙して、「悲しさの余りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香《か》の口より出来《いでき》たりけるにぞ、うとむ心いできて、なく/\はふりてける」と書いてある。生きては人たり、死しては物たり、定基はもとより人に愛着を感じたのである、物に愛着を感じたのでは無かった。しかし物猶人の如くであったから、いつまでも傍に居たのであろう。そして或時思いも寄らず、吾が口を死人の口に近づけたのであろう。口を吸いたりけるに、と素樸《そぼく》に書いた昔の文は実に好かった。あさましき香の口より出来りける、とあるが、それは実に誰もが想像し兼ねるほどの厭《いと》わしい、それこそ真にあさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い希有《けう》の香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は流石《さすが》に快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って楊枝《ようじ》のような細い冷い手を男の頸《くび》に捲《ま》きつけて、しがみ着いて来たら何様《どう》いうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香に畏《おそ》れ戦《おのの》いて後へ退《すさ》ったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海の鰹《かつお》や鮪《まぐろ》の死骸などは、嘗《な》めて味わって噛んで嚥《の》んで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と死屍《しかばね》を食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであった。ここを坊さんの虎関は、|会失[#レ]配《たま/\はいをうしなひ》、|以[#二]愛厚[#一]緩[#レ]喪《あいこうをもつてさうをゆるうし》、|因観[#二]九相[#一]《よりてきうさうをくわんじ》、|深生[#二]厭離[#一]《ふかくをんりをしやうず》、と書いているが、それは文飾が届き過ぎて事実に遠くなっている。九相《きゅうそう》は死人の変化道程を説いたもので、膨張相《ぼうちょうそう》、青※[#「やまいだれ+於」、第3水準1−88−48]《せいお》相、壊《え》相、血塗《けっと》相、膿瀾《のうらん》相、虫※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《ちゅうかん》相、散相、骨相、土相をいうので、何も如何に喪を緩うしたとて、九相を観ずるまで長く葬らずに居たのでは無い、大納言の「口を吸ひたりけるに」の方が遥かに好い文である。そこで定基は力寿を葬ってしまった。葬という字は、死屍を、上も草なら下も草、草むらの中に捨てて了うことであり、ほうむるという言葉は、抛《ほう》り放つことで、野か山へ抛り出して終うのである。何様も致しかたの無い人の終りは、然様するか然様されるのが自然なのである。生相憐み、死相|捐《す》つるのである、力寿定基は終《つい》に死相捐てたのである。
力寿に捐てられ、力寿を捐てた後の定基は何様なったか。何様も無い、斯様《こう》も無い、ただそこには空虚があったばかりであった。定基は其空虚の中に、頭《かしら》は天を戴くでもなく、脚は地を履《ふ》むでも無く、東西も知らず南北も弁《わきま》えず、是非善悪吉凶正邪、何も分らずふらふらと月日を過した。其|中《うち》に四月が来て、年々の例式で風祭りということをする時が来た。風祭りと云っても、万葉の歌の、花に嵐を厭うて「風な吹きそと打越えて、名に負へる森に風祭りせな」というような風流な風祭りではない。三河の当時の田舎の神祭りの式で、生贄《いけにえ》を神に献じて暴風悪風の田穀を荒さぬようにと祈るのであった。趣意はもとより悪いことではない、例は年々行われて来たことだった。定基は三河の守である、式には勿論あずかったのである。ただ其の生贄を献《ささ》げるというのは、野猪《いのしし》を生けながら神前に引据えて、男共が情も無くおろしたのであった。野猪は鈍物でも殺されるのを合点して忍従する訳は無いから、逃れようともすれば、抵抗もする。終に敵《かな》わずして変な声を出して哀しみ困《くるし》んで死んでしまうのであった。定基はこれを見て、いやに思った。が、それは半途で止める訳にはゆかぬから、自ら堪えて其儘《そのまま》に済ませて終った。生贄ということは何時から始まったか知らぬが、吾が邦《くに》では清らな神代の古《いにしえ》にはなかったようである。支那では古からあったことのようであるが、犠牲の観念は吾が神国にも支那の思想や文物の移入と共に伝わったのではないか、既に今昔物語には人身|御供《ごくう》の物語が載っていて、遥かに後《のち》の宮本左門之助の武勇談などの祖と為っている。社会組織の発達の半途にあっては、生贄の是認せらるべき趨勢《すうせい》は有りもしようが、※[#「穀」の「禾」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]《こくそく》たる畜類の歩みなどを見ては、人の善良な側の感情から見て、神に献げるとは云え、何様も善いことか善くない事か疑わしいと思わずには居られないことである。換言すれば犠牲ということを可なりとする社会善というものが、果して善であろうか、然様で無かろうかも疑わしいことである。然し豪傑主義から云えば、勿論のこと、神に献げる犠牲などは論ずるにも足らぬことで、其様《そん》なことを否認などしては国家の組織は解体するのであるから、巌窟《がんくつ》に孤独生活でも営んでいる者で無い限りは犠牲ということを疑ってはならぬのが、人間世界の実状である。扨《さて》それから少し後《あと》のことであった。今まで狩猟などをも悦《よろこ》んでいたことであるから定基のところへ生き雉子《きじ》を献じたものがあった。定基は、此の雉子生けながら作りて食わん、味やよき、心みん、と言い出した。奴僕《ぬぼく》の中《うち》の心のあらい者は、主人を神とも思っているから、然様《さよう》でござる、それは一段と味も勝り申そうと云い、少し物わかりのした者は、それは酷《むご》いとは思ったが、諫《いさ》め止《とど》めるまでにも至らなかった。やがてむしらせると、雉子はばたばたとするのを、取って抑えてむしりにむしった。鳥は堪らぬから、涙の目をしばたたきて、あたりの人々を見る。目を見合せては流石に哀れに堪兼ねて立退くものもあったが、鳴き居るは、などと却《かえ》って興じ笑いつつ猶もむしり立てる強者《つわもの》もあった。※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りおおせたから、おろさせると、刀《とう》に従って血はつぶつぶと出で、堪えがたい断末間の声を出して死んで終った。炒《あぶ》り焼きして心見よ、と云うと、情無い下司男《げすおとこ》は、其言葉通りにして見て、これはことの外に結構でござる、生身《いきみ》の炒《あぶ》り焼きは、死したるのよりも遥かに勝りたり、などと云った。いずれは此世の豪傑共である。定基はつくづくと見て居たが、終《つい》に堪えかねて、声を立てて泣き出して、自分の豪傑性を否認して終《しま》って、三河守も何もあらばこそ、衣袍《いほう》取繕う遑《いとま》も無く、半天の落葉ただ風に飛ぶが如く国府を後《あと》にして都へ出てしまった。
勿論官職位階は皆辞して終った。疑い訝《いぶか》る者、引留める者も有ったには相違無い、一族|朋友《ほうゆう》に非難する者も有ったには相違無い。が、もう無茶苦茶無理やり、何でも構わずに非社会的の一個のただの生物《いきもの》になって仕舞った。犠牲を献《ささ》げるのを正しいこととし、犠牲を献げるのを怠るごときは、神に対する甚しい非礼とし、不道とし、大悪とする。犠牲を要求するのは神の権威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って然様《そう》して神に一致するを得るに至るを得《う》、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求|乃至《ないし》巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒|一尾《いっぴき》、卵一箇も摂《と》れぬのである。旨《うま》く味わうが為に雉子《きじ》の一羽や二羽の生《いけ》づくりが何であろう。風の神にささげる野猪《いのしし》の一匹や二匹の生贄《いけにえ》が何であろう。易牙《えきが》は吾《わ》が子を炙《あぶ》り物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体|何様《どう》いうものであるか、卑怯者《ひきょうもの》なのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、夥《おびただ》しい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち娑婆《しゃば》世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨《さみだれ》のしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう境界《きょうがい》を透過した者から云わせれば、所謂《いわゆる》黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄い筐《かたみ》様のものを捧げて来た。
「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべく購《あがな》ひ取りてたまはれか
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