しとて持参り深々と頼み入りましてのことに、強《きつ》くは拒《こば》み兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は何彼《なにか》と尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長い病《わずらい》の末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、吾《わ》が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急を凌《しの》ごうということらしい。鏡は当時|猶《なお》なかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙の萎《な》えたるに筆のあとも薄く、「今日《けふ》のみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の魂魄《たましい》とする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざと※[#「匈/月」、944−下−25]《むね》に浮んで来て、定基は闇然として眼を瞑《つむ》って打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡は吾《われ》に要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と吩附《いいつ》けて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの仔細《しさい》を附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に斯様《こう》いうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が濁悪《じょくあく》の世界を離れようとする時には、不思議に上求菩提《じょうぐぼだい》の因縁となることが現出するもので、それは浄居天《じょうごてん》がさせるわざだ、という小乗的の談《はなし》があるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基を喚《よ》びに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の財物《ざいもつ》を与え取らせた後不思議に清々《すがすが》しい好い心持になった。そして遂に愈々《いよいよ》吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これを塞《ふさ》ぎ遮ろうとするような人では無く、却《かえ》って其|背影《うしろかげ》に合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者の偈《げ》は、定基の※[#「匈/月」、945−上−22]の中《うち》にも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。
定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は出塵《しゅつじん》してから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然《たんぜん》清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の金箔《きんぱく》臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧《ざんまい》に住していたのである。二人の談話は何様《どん》なものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪《ていはつ》して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、齢《とし》はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。
寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行《どうぎょう》を励み道義を詮するほかに余念も無く、清浄安静《しょうじょうあんじょう》に生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ること漸《ようや》くにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の大路《たいろ》の砥《と》の如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従って大《おおい》に益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行《ずだぎょう》を厳修したので、当時円融院の中宮|遵子《ゆきこ》の御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は乞食《こつじき》をとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、衣《え》二、食《し》四、住《じゅう》六の法式の中《うち》の、第三、常乞食《じょうこつじき》の法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は汚《むさ》い色目も分らぬ襤褸《らんる》を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し了《おわ》らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の中《うち》の常乞食は、一には因縁|所生《しょしょう》の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《きょうまん》を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の倣《なら》うことを生ず、九には男女大小の諸《もろもろ》の縁事を離る、十には次第に乞食《こつじき》するが故に、衆生の中《うち》に於て平等|無差別《むしゃべつ》の心を生ず。これであるから余りに鄭重《ていちょう》な供養を提出された時に、恵心が其の燦爛《さんらん》たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石《さすが》に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第《しだい》乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も撰《えら》まず、鉢を持して次第に其門に立って食《し》を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行《ずだぎょう》をした。一鉢三衣《いっぱつさんえ》、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に喚《よ》び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて下《おろ》してあった簾《すだれ》を捲上《まきあ》げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は「あの乞丐《かたい》、如是《かく》てあらんを見んと思いしぞ」と言った。寂照は女を見た。女も寂照を見た。眼と眼とは確かに見合せた。女は正《まさ》しく寂照が三河守定基であった時に逐《おい》出《いだ》した其女であった。女の眼の中には無量なものがあった。怨恨《えんこん》の毒気のようなものもあった、勝利を矜《ほこ》るようなものもあった、冷やかなものもあった、甚だしい軽蔑《けいべつ》もあった、軽蔑し罵倒《ばとう》し去っての哀れみのようなものもあった、猶《なお》自己《おの》が不幸に沈淪《ちんりん》している苦痛を味わいかえして居るが如きものもあった、又其の反対に飽《あく》までも他を嘲《あざけ》りさいなむような、氷ででも出来た利刃の如きものもあって、それは定基の身体のあらゆるところを深く深く※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]《えぐ》りまわろうとした。割り口説いて云えば斯様《こう》でもあるが、何もそれが一ツ一ツに存在しているのではなく、皆が皆一緒になって、青黄赤白、何の光りともない毒火の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》となって迸《ほとばし》り出て掩《おお》いかかるのであった。そして女は極めて緩く鈍く薄笑いに笑った。それは笑いというべきものであったか、何であったか分らぬ、如何なる画にも彫刻にも無い、妖異《ようい》で凄惨《せいさん》なものであった。
定基が定基であったなら、一石が池水に投ぜられたのであったから、波瀾淪※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《はらんりんい》はここに生ぜずには済まなかったろう。然し寂照は寂照であった、鳥影が池上に墜《お》ちたのみであったから、白蘋緑蒲《はくひんりょくほ》、かつて動かずであった。今は六波羅密《ろくはらみつ》の薄い衣《ころも》に身を護られて、風の射る箭《や》もとおらざる境界《きょうがい》に在るものであった。忍辱《にんじょく》波羅密《はらみつ》、禅波羅密、般若《はんにゃ》波羅密の自然の動きは、逼《せま》り来る魔※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《まえん》をも毒箭をも容易に遮断し消融せしめた。寂照はただ穏やかに合掌した。諸仏|菩薩《ぼさつ》の虚空に充満して居られて此方を瞰《み》ていらるるに対し、奉恩謝徳の念のみの湧き上るに任せた。我に吹掛ける火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]の大熱は、それだけ彼女の身を去って彼女に清涼を与えるわけになった。我に射掛くる利箭《りせん》の毒は、それだけ彼女の懐を出でて彼女の※[#「匈/月」、946−下−14]裏《きょうり》を清浄《しょうじょう》にすることになった。我を切り、突き、※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]らんとする一切|兇悪《きょうあく》の刀槍剣戟《とうそうけんげき》の類は、我に触れんとするに当って、其の刃頭が皆|妙蓮華《みょうれんげ》の莟《つぼみ》となって地に落つるを観た。施行《せぎょう》の食《し》は彼の我に与うるによって彼の檀波羅密《だんはらみつ》を成《じょう》じ、我の彼に受けて酬《むく》いるに法を与うるを以てするの故に、我の檀波羅密を成じ、速疾得果の妙用を現ずるを観た。寂照は「あな、とうと」と云いて端然《たんねん》と食《し》を摂《と》り、自他平等|利益《りやく》の讃偈《さんげ》を唱えて、しずかに其処を去った。戒波羅密や精進波羅密、寂照は愈々《いよいよ》道に励むのみであった。彼女は其後|何様《どう》なったかは伝わって居らぬが、恐らくは当時の有識階級の女子であったから、多分は仏縁に引かれて化度《けど》されたでもあったろう。
寂照は寂心恵心の間に挟まり、其他の碩徳《せきとく》にも参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干歳《いくばくさい》も経ないで僧都《そうず》になった。僧都だの僧正《そうじょう》だのというのは、俗界から教界を整理する便宜上から出来たもので、本来から云えば、名誉でもなく、有るべき筈もないものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。寂心は僧官などは受けなかったようだが、一世の崇仰《すうぎょう》を得たことは勿論であって、後には天《あめ》が下を殆どおのが心のままにしたように謂《い》われ、おのれも寛仁の二年の冬には、自己満足の喜びの余りに「此世をば吾《わ》が世とぞおもふ望月《もちづき》のかけたることも無しとおもへば」と、実にケチな歌を詠んで好い気になった藤原道長も、寂心を授戒の師と頼んだのであった。何も道長が寂心に三帰五戒を授かったからとて寂心の為に重きを成すのでは無いが、あの果報いみじくて※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢至極であった御堂関白が、此の瘠《や》せぼけたおとなしい寂心を授戒の師とし、自分は白衣《びゃくえ》の弟子とし
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