しい美人を譬《たと》えに引くのも大袈裟《おおげさ》だが、色を貪《むさぼ》るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫《かき》を納《い》れんとした時、申公《しんこう》巫臣《ふしん》が諫《いさ》めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚《ぐ》なことだと云いもしたろう。貪色《たんしょく》の二字は実に女の美《よ》いのを愛《め》ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播《ま》いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強《きつ》いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗《げきりん》即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎《ほのお》を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房《ふるにょうぼう》を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬《たと》えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍《そば》より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀《はさみ》を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因《にょぜいん》、如是縁《にょぜえん》、如是因、如是縁、と繰返して謂《い》って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤《せんしょう》さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊《いささ》か身を退《ひ》いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝《つ》いて出て来た。檀弓《だんぐう》に見えて居る通り、子上《しじょう》の母死して喪《そう》せずの条によれば、孔子《こうし》の御孫の子思子《ししし》が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子《し》の先君子出母を喪せる乎《か》」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶《なお》哭《こく》す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人|孔夫子《こうふうし》に去られたことは分明である。何様《どう》いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋《そう》の幵官氏《けんかんし》を娶《めと》られ、其翌年に鯉《り》字《あざな》は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶《なお》哭《こく》せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉《ととの》うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟《か》、或は幵官氏に宜しからぬことのありし歟。すべて遠き古《いにしえ》の事、考え知らんにも今如何ともし難けれど、我等凡愚にはただ因縁不可思議とのみ存ずる、何様いうものでござろうか、と意外な逆手に出られた。これは何も定基が匡衡より学識が勝《すぐ》れていた故というのでは無いが、定基の方は自分の境遇の現在から斯様《こう》いうことを実際の問題にして、いろいろ苦悩して考えていたからである。匡衡は一寸身を退《ひ》かずには居られなかった。相撲なら、ここで定基の出足さえ速かったら、匡衡は手もなく推出されて終《しま》うところだったが、何も定基は勝負《かちまけ》を争うつもりのわけでは無かったから、追窮するような態度に出無かった。が、匡衡の方では、明らかに自分が推戻されてたじたじとなったのを感じた。けれども匡衡も鳶肩倔強《えんけんくっきょう》の男児だ、斯様なると話が学問がかったところで推出されじまいになるのには堪えられなかった。何も争いを仕に来たので無いのは知れきったことだが、負けたようになって引退《ひきさが》ることは厭《いや》だった。そこは流石《さすが》に才子で、粟津の浜に精兵を率いて駈通るような文章を作る男だけに、檀弓は六国《りくこく》の人、檀弓一篇は礼記《らいき》に在りと雖《いえど》も、もと伝聞に出ずるもので、多く信ず可からず、というような論は、云えば云えぬでは無いが、そんな迂《う》なことを馬鹿正直に云うよりも、相手の推しを其儘《そのまま》にいなせて、「如何にも」と云ったまま少時《しばらく》考えたが、忽《たちま》ち思い得たところがあったか薄笑いして、成程、聖人も性の合わぬ妻を去られたということは有ったでもござろう、然し聖人は妻を去られたにしても、其後《そののち》他の婦人を迎えて妻とせられたことは無いように存ずる、其証は孔子の御子は伯魚一人|限《ぎ》りで、幵官氏の出《しゅつ》ただ一人《いちにん》、其他に伯魚の弟、妹というものは無かったのでござる、又孔子が継室を迎えられた、それは何氏であったということも、それがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬでござるが、と談話は実に斡旋《あっせん》の妙を極めた。此度は定基の推した手を却《かえ》って軽く引いて置いて、側《そば》から横へ推したようなものだった。定基は抵抗されたのでは無いが、思わぬ方《かた》へ身を持って行かれたのであった。妻を去るのは去るにしても、力寿を其|後《あと》へ入れることは無くてあるべきように云われたのである。元来聖人などを持出したのが、変なことだったので、変なことの結果は変なことになって終ったのである。双方の話は生活の実際に就てであったのだが、歯に物の挟まった物の云い方を仕合った結果は、書物の古話になってしまった。しかしそれも好かった、書生の閑談で事は終って了って、何等のいさくさも無く稜立《かどだ》つことも無く済んで了った。
但し双方とも、平常の往来、学問文章の談論でなくて有ったことは互の腹に分って居ない筈は無かったのだから、匡衡の方は人が折角親切気で物を云ってやったに、分らぬ男だと思えば、定基の方は大きな御世話で先日は生才女《なまさいじょ》、今日は生学者が何を云って来居るのだ、それも畢竟《つまり》は家の女めが何か彼か外へ漏らすより、と腹なりを悪くしたに違無い。物の因縁というものは、善くなるのも悪くなるのも、都《す》べて斯様いうもので、親切は却って仇《あだ》となり、助けは却って障りとなって、正基は愈々《いよいよ》妻を疎み、妻は愈々夫を恨み、無言の冷眼と嫉妬《しっと》のひぞり言とは、日に戦ったが、定基は或はずみに遂に妻を去ろうと云い出して了った。女は流石に泣いたり笑ったりしたが、何様も仕方無く、遂に家を出て終った。当時の離別の形式などは今これを詳知する材料に乏しいが、いずれ美しく笑って別れるということは有ろう筈無く、男の瞋眼《しんがん》、女の怨気《えんき》、あさましく、忌わしい限りを尽して別れたことであったろう。それで無くては別れられる訳も無いのだから。特《こと》に女に取っては、一生を全く墨塗りにされるのだから、定基の妻は恨みもしたろう、悪《にく》みもしたろう、人でも無いもののように今までの夫を蔑視《べっし》もしたろう、行末|悪《あし》かれ、地獄に墜《お》ちよ、畜生になれ、修羅になって苦め、餓鬼になって悩め、と呪《のろ》いもしたろう。そして自分の将来、何の光も無く、色も無く、香も無い、ただ真黒な冷い闇のみの世界を望み視《み》ては、愴然《そうぜん》栗然《りつぜん》として堪《こら》えきれぬ思いをしたことであったろう。
およそ人間世界に夫婦別れをする女ほど同情に値するものはあるまい。それは決して純善から生ずるものでは無かろうから、同情に値しない個処が存在することを疑わない。たとえば定基の妻にしても妬忌《とき》の念が今少し寡《すくな》かったら如何に定基が力寿に迷溺《めいでき》したにせよ、強いて之を去るまでには至らなかったろうと想われる。然し何が何様あろうとも、一生の苦楽を他人に頼る女のことであるから、善かれ悪かれ取宛てた籤《くじ》の男に別れては堪《たま》るものではない。そこへ行くと男の方は五割も十割も割がよい。甚だしいのになると、雨晴れて簑《みの》を脱ぎ、水尽きて舟を棄つるような気分で女に別れて、ああせいせいしたなどと洒落《しゃれ》れているのである。それでいて其男が甚《ひど》い悪人でも無いというのが有るのだから、一体愛情というものの上には道徳が存するものか何様かと疑われるほどで、何にしても女は不利な地に立っている。定基は勿論悪人というのではないが、つまりは馬で言えば癇強《かんづよ》な馬で、人としては生一本《きいっぽん》の人であったろう。で、女房を逐出《おいだ》し得てからは、それこそせいせいした心持になって、渾身《こんしん》の情を傾けて力寿を愛していたことであろう。任地の三河にあっては第一の地位の三河守であり、自分のほかは属官僕隷であり、行動は自由であり、飲食は最高級であり、太平の世の公務は清閑であり、何一ツ心に任せぬことも無く、好きな狩猟でもして、山野を馳駆《ちく》して快い汗をかくか、天潤いて雨静かな日は明窓|浄几《じょうき》香炉詩巻、吟詠《ぎんえい》翰墨《かんぼく》の遊びをして性情を頤養《いよう》するとかいう風に、心ゆくばかり自由安適な生活を楽んでいたことだったろう。ところが、それで何時迄も済めば其様《そん》な好いことは無いが、花に百日の紅無し、玉樹亦|凋傷《ちょうしょう》するは、人生のきまり相場で、造物|豈《あに》独り此人を憐まんやであった。イヤ去られた妻の呪詛《じゅそ》が利いたのかも知らぬ。いつからという事も無く力寿はわずらい出した。当時は医術が猶《なお》幼かったとは云え、それでも相応に手の尽しかたは有った。又十一面の、薬師の、何の修法《しゅほう》、彼《か》の修法と、祈祷《きとう》の術も数々有った。病は苦悩の多く強いものでは無かったが、美しい花の日に瓶中《へいちゅう》に萎《しお》れゆくが如く、清らな瓜の筺裏《きょうり》に護られながら漸《ようや》く玉の艶を失って行くように、次第次第衰え弱った。定基は焦躁《しょうそう》しだした。怒りを人に遷《うつ》すことが多くなった。愁を独りで味わっていることが多くなった。療治の法を求めるのに、やや狂的になった。或時はやや病が衰えて元気が回復したかのように、透徹《すきとお》るような瘻《やつ》れた顔に薄紅の色がさして、それは実に驚くほどの美しさが現われることも有ったが、それは却《かえ》って病気の進むのであった。病人は定基の愛に非常な感謝をして、定基の手から受ける薬の味の飲みにくいのをも、強いて嬉しげを装うて飲んだ。定基にはそれが分って実に苦かった。修法の霊水、本尊に供えたところの清水《せいすい》を頂かせると、それは甘美の清水であるので、病人は心から喜んで飲んで、そして定基を見て微かに笑う、其の此世に於て今はただ冷水を此様《かよう》に喜ぶかと思うと、定基は堪《たま》らなく悲しくて腹の中で泣けて仕方がなかった。病気は少しも治る方へは向かなかった。良い馬が確かな脚取りを以て進むように、次第次第に悪い方へのみ進んだ。其の到着点の死という底無しの谷が近くなったことは定基にも想いやられるようになったし、力寿にもそれが想い知られているようになったことが、此方の眼に判然と見ゆるようになった。しかし二人とも其の忌わしいことには、心
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