あさましい香であったろう。死に近づいている人の口臭は他の何物にも比べ難い希有《けう》の香のするもので、俗に仏様くさいと云って怖れ忌むものであるが、まして死んでから幾日か経ったものの口を吸ったのでは、如何に愛着したものでも堪らなかったろう。然し定基は流石《さすが》に快男児だった、愛も痴もここまでに到れば突当りまで行ったものだった。其時その腐りかかった亡者が、嬉しゅうござんす定基さん、と云って楊枝《ようじ》のような細い冷い手を男の頸《くび》に捲《ま》きつけて、しがみ着いて来たら何様《どう》いうものだったか知らぬが、自然の法輪に逆廻りは無かったから、定基はあさましい其香に畏《おそ》れ戦《おのの》いて後へ退《すさ》ったのである。人間というものは変なもので、縁もゆかりも無い遠い海の鰹《かつお》や鮪《まぐろ》の死骸などは、嘗《な》めて味わって噛んで嚥《の》んで了うのであるから、可愛いい女の口を吸うくらい、当りまえ過ぎるほど当りまえであるべきだが、然様は出来ないのである。ダーキーニなら、これは御馳走と死屍《しかばね》を食べも仕ようが、ダーキーニでは無かった定基は人間だったから後へ退って了ったのであっ
前へ 次へ
全120ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング