》の御孫の子思子《ししし》が妻を去られたことは分明である。又其章の、門人が子思子に問われた言葉に、「昔は子《し》の先君子出母を喪せる乎《か》」とあるによれば、子思子の父の子伯魚も妻を去られたようである。イヤ、それよりも同じ章の別の条に、「伯魚の母死す、期にして而して猶《なお》哭《こく》す」の文によれば、伯魚の母即ち孔子の妻も、吾が聖人|孔夫子《こうふうし》に去られたことは分明である。何様《どう》いう仔細あって聖人が子まであった夫人を去られたか、それはそれがし不学で未だ見及ばず聞及ばぬが、孔子は年十九にして宋《そう》の幵官氏《けんかんし》を娶《めと》られ、其翌年に鯉《り》字《あざな》は伯魚を生ませたもうたのである。伯魚が出母の死に当り期にして猶《なお》哭《こく》せるは、自然であるが、孔子が幵官氏を出し玉うたのは、因縁不和とよりそれがしには合点がならぬ。聖人の徳、家を斉《ととの》うるに足らなかったとは誰も申し得ぬ。しかし夫子も上智と下愚とはうつらずと申して居らるる。うつらずとは徳化も及ばざることでござろう。聖人の盛徳といえども、御年猶若かりし頃には、堪えかねて見放したもうて去られしもの歟《
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