ある大江匡衡があった。匡衡は大江維時の嫡孫であって、家も其格が好い。定基は匡衡の父重光の弟の斉光の子で、しかも二男坊である。匡衡定基はおよそ同じほどの年頃であるが、才学は優劣無いにしても匡衡は既に文名を馳《は》せて大《おおい》に称せられている。それやこれやの関係で、自然定基は匡衡に雁行する位置に立って居る。そこへ持って来て匡衡は、定基が妻を迎えたと彼是《かれこれ》同じ頃に矢張り妻を迎えたのである。いずれもまだ何年もたたぬ前のことである。匡衡は七歳にして書を読み、九歳にして詩を賦したと云われた英才で、祖父の維時の学を受け、長じて博学、渉《わた》らざるところ無しと世に称せられていた。其文章の英気があって、当時に水際だっていたことは、保胤の評語に、鋭卒数百、堅甲を※[#「環」の「王」に代えて「てへん」、第3水準1−85−3]《ぬ》き駿馬《しゅんめ》に鞭《むち》うって、粟津の浜を過ぐるが如し、とあったほどで、前にも既に其事は述べた。しかも和歌までも堪能《かんのう》で、男ぶりは何様《どう》だったか、ひょろりとして丈高く、さし肩であったと云われるから、ポッチャリとした御公卿《おくげ》さん達《だち》
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