無いと、自分が今催促されて参入する気忙《きぜわ》しさに、思慮分別の暇《いとま》も無く、よしよし、さらば此の石帯を貸さんほどに疾《と》く疾く主人《あるじ》が方《かた》にもて行け、と保胤は我が着けた石帯を解きてするすると引出して女に与えた。女は仏|菩薩《ぼさつ》に会った心地して、掌《て》をすり合せて礼拝し、悦《よろこ》び勇んで、いそいそと忽《たちま》ち走り去ってしまった。保胤は人の急を救い得たのでホッと一[#(ト)]安心したが、ア、今度は自分が石帯無し、石帯無しでは出るところへ出られぬ。
 いかに仏心仙骨の保胤でも、我ながら、我がおぞましいことをして退けたのには今さら困《こう》じたことであろう。さて片隅に帯もなくて隠れ居たりけるほどに、と今鏡には書かれているが、其片隅とは何処の片隅か、衛門府の片隅でも有ろうか不明である。何にしろまごまごして弱りかえって度を失っていたことは思いやられる。其の風態は想像するだにおかしくて堪えられぬ。公事《くじ》まさにはじまらんとして、保胤が未だ出て来ないでは仕方が無いから、属僚は遅い遅いと待ち兼ねて迎え求めに出て来た。此体を見出しては、互に呆れて変な顔を仕合っ
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