ち》にも断えず唱えられたろうが、定基の母にも恩愛の涙と共に随喜の涙によって唱えられたことであったろう。
 定基は東山如意輪寺に走った。そこには大内記慶滋保胤のなれの果の寂心上人が居たのである。定基は寂心の前に端座して吾が淵底を尽して寂心の明鑑を仰いだのである。寂心は出塵《しゅつじん》してから僅に二三年だが、今は既に泥水全く分れて、湛然《たんぜん》清照、もとより浮世の膠も無ければ、仏の金箔《きんぱく》臭い飾り気も無くなっていて、ただ平等慈悲の三昧《ざんまい》に住していたのである。二人の談話は何様《どん》なものだったか、有ったか無かったか、それも分らぬ。ただ然し機縁契合して、師と仰がれ弟子と容れられ、定基は遂に剃髪《ていはつ》して得度を受け、寂照という青道心になったのである。時に永延二年、齢《とし》はと云えば、まだ三十か三十一だったのである。よくも思いきったものであった。
 寂照は入道してから、ただもう道心を持し、道行《どうぎょう》を励み道義を詮するほかに余念も無く、清浄安静《しょうじょうあんじょう》に生活した。眼前は日に日に朗らかに開けて、大千世界を観ること漸《ようや》くにして掌上の菓を視るが如くになり、未来は刻々に鮮やかに展じて、億万里程もただ一条の大路《たいろ》の砥《と》の如く通ずるを信ずるに至ったでもあったろう。仏乗の研修は寂心の教導のみならず、寂心の友たり師たる恵心の指示をも得て、俊敏鋭利の根器に任せて精到苦修したことでもあったろう。恵心はもとより緻密厳詳の学風の人であったから、寂照はこれに従って大《おおい》に益を得たことでもあろう、それで寂照を恵心の弟子のように云伝えることも生じたのであろう。しかも恵心はまた頭陀行《ずだぎょう》を厳修したので、当時円融院の中宮|遵子《ゆきこ》の御方は、新たに金の御器ども打たせたまいて供養せられたので、かくては却ってあまりに過ぎたりと云って、恵心は乞食《こつじき》をとどめたと云う噂さえ、大鏡にのこり伝わっているほどである。頭陀行というのは、仏弟子たるものの如法に行うべき十二の行をいうので、何も乞食をするのみが唯一の事ではないが、衣《え》二、食《し》四、住《じゅう》六の法式の中《うち》の、第三、常乞食《じょうこつじき》の法が自然に十二行の中枢たるの観を為すに至っているので、頭陀行をすると云えば乞食をするということのようになっている。本来を云えば此の優美でも円満でも清浄でも無い娑婆世界を洗いかえそうというのが頭陀行で、そのために仏子となって仏法に帰依し、自分は汚《むさ》い色目も分らぬ襤褸《らんる》を着て甘んじ、慾得ずくからの職業産業から得るのでない食物を食って足れりとし、他を排しおのれを護る住宅でもないところに身を安んじ、そして一念ただ清涼無熱悩の菩提に帰向し了《おわ》らんとするのが頭陀行である。其の頭陀行の中《うち》の常乞食は、一には因縁|所生《しょしょう》の吾が身を解脱に至らしむるまでの経程を為すのである、二には我に食を施す者をして仏宝法宝僧宝の三宝に帰依せしむ、三には我に食を施すものをして悲心を生ぜしむ、四には我に我心無し、仏の教行に順ずるなり、五には満ち易く養い易く、安易の法なり、六には諸悪の根幹たる※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢《きょうまん》を破る、七には最卑下の法を行ずるに因りて最頂上相の感得を致す、八には他の善根を修する者の倣《なら》うことを生ず、九には男女大小の諸《もろもろ》の縁事を離る、十には次第に乞食《こつじき》するが故に、衆生の中《うち》に於て平等|無差別《むしゃべつ》の心を生ず。これであるから余りに鄭重《ていちょう》な供養を提出された時に、恵心が其の燦爛《さんらん》たる膳部に対して「かくては余りに見ぐるし」と云ったのも無理はないことで、ぴかぴかきらきらしたものを「見ぐるしい」としたのは流石《さすが》に恵心であった。其の恵心の弟子同様の寂照である。これは三河守だった昨日に引かえて、今日は見るかげも無い青道心である。次第《しだい》乞食は之を苦しいとはせぬであったろうが、かなり苦しいことでもあったろう。次第乞食とは、良い家も貧しい家も撰《えら》まず、鉢を持して次第に其門に立って食《し》を乞うのである。或日の事寂照は師の恵心の如く頭陀行《ずだぎょう》をした。一鉢三衣《いっぱつさんえ》、安詳に家々の前に立って食を乞うたのである。すると一軒の家に喚《よ》び入れられた。通って見ると、食物を体よくして「庭に畳を敷きて、供養しようとしたのである。何の心も無く其畳に居て、唱え言をして食わんとした。其時そこに向いて下《おろ》してあった簾《すだれ》を捲上《まきあ》げたので、そなたを見ると、好き装束した女の姿が次第にあらわれた。簾は十分に上げられた。誰に言うたのか、女は
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