威であり、高徳であり、一切を光被する最善最恵の神の自然の方則であり、或る場合には自ら進んで神の犠牲となり、自己の血肉肝脳を神に献げるのを最高最大最美最壮烈の雄偉な精神の発露として甘んずるのを純粋な道徳であるとする、従って然様《そう》して神に一致するを得るに至るを得《う》、ということで社会は勇健に成立っているのである。如何にもそれで無くては堅固な社会は成立たぬであろう。犠牲の累積と連続とで社会というものは成立っているのである。犠牲の否認というが如きは最卑最小最劣の精神である、犠牲の強要強求|乃至《ないし》巧要巧求をするのは、豪傑乃至智者なのである。犠牲を甘受しなければ鮒|一尾《いっぴき》、卵一箇も摂《と》れぬのである。旨《うま》く味わうが為に雉子《きじ》の一羽や二羽の生《いけ》づくりが何であろう。風の神にささげる野猪《いのしし》の一匹や二匹の生贄《いけにえ》が何であろう。易牙《えきが》は吾《わ》が子を炙《あぶ》り物にして君にささげたという。あの中間の犠牲取扱者は一体|何様《どう》いうものであるか、卑怯者《ひきょうもの》なのか豪傑なのか。既に犠牲の累積と連続とで社会が成立っている以上は、夥《おびただ》しい数の犠牲取扱人が居なければならぬが、イヤ、一切の人間が大抵相互に犠牲となり犠牲を取り犠牲取扱人となっているのが此の人間世界の実相なのである。人間同士、甘んじて犠牲となり合うのが愛であり、犠牲を強要しあうのが争闘であり、然様でない犠牲の自、他、中間の種々相は即ち娑婆《しゃば》世界の実相である。自分はもう幻影に過ぎなかった愛の世界を失って娑婆即ち忍苦の世界の者となったのみだ、其娑婆に在って又ふたたび幻影の世界を求めて、遅かれ速かれふたたび浅ましい物の香に接しようとも思わぬ、と取留めも無く、物を思うでもなく、思わぬでもなく、五月雨《さみだれ》のしとしとと降る頃を、何か分らぬ時を過した。もう然様いう境界《きょうがい》を透過した者から云わせれば、所謂《いわゆる》黒山鬼窟裏の活計を為て居たのであった。そこへ従僕が突として現われて、手に何か知らぬ薄い筐《かたみ》様のものを捧げて来た。
「何か」と問うと、老いた其男の答は極めて物しずかであった。「其のさま卑しからぬ女の、物ごしもまことに宜しくはあれどいたく貧苦愁苦にやつれて見えたるが、願はくは此鏡を然るべく購《あがな》ひ取りてたまはれかしとて持参り深々と頼み入りましてのことに、強《きつ》くは拒《こば》み兼ねて、要無きこととは存じましたれど、御眼の前にもてまゐりたり」という。鏡が今の定基に何のかかわりがあろう。然し定基は何彼《なにか》と尋ねると、いずれ五位六位ほどの妻であろうか、夫の長い病《わずらい》の末か、或は何様いうかの事情の果にいたく窮乏して、如何ともし難くなって、吾《わ》が随一の宝の鏡を犠牲にして売って急を凌《しの》ごうということらしい。鏡は当時|猶《なお》なかなかに貴いものであったのである。定基は其筺を開いて鏡を見ようとすると、其包み紙の萎《な》えたるに筆のあとも薄く、「今日《けふ》のみと見るになみだのます鏡なれにし影を人にかたるな」と書いてあった。事情が何も分った訳ではないが、女の魂魄《たましい》とする鏡を売ろうとするに臨みての女の心や其事情がまざまざと※[#「匈/月」、944−下−25]《むね》に浮んで来て、定基は闇然として眼を瞑《つむ》って打仰いで、堪えがたい哀れを催した。そこで、鏡は吾《われ》に要なければ返し取らせよ、定めて何彼と物の用あろうほどに、我がものは何なりと惜みなく其人に取らせよ、よくよくあわれびをかけよ、と吩附《いいつ》けて、涙の漏る眼をおし拭うた。この鏡を売りに来た女は何様いうものであったか、定基に何か因縁のあったものか、文化文政度の小説ならば、何かの仔細《しさい》を附加えそうなところだが、それは何も分明していない。恐らくは偶然に斯様《こう》いうことが湧いて来たのであろう。強いて筋道を求むれば、人が濁悪《じょくあく》の世界を離れようとする時には、不思議に上求菩提《じょうぐぼだい》の因縁となることが現出するもので、それは浄居天《じょうごてん》がさせるわざだ、という小乗的の談《はなし》があるが、仮りに其談に従えば、浄居天が定基を喚《よ》びに来てくれたものであったろう。定基は其婦人の窮を救うために、種々の自分の財物《ざいもつ》を与え取らせた後不思議に清々《すがすが》しい好い心持になった。そして遂に愈々《いよいよ》吾が家を棄てて出た。勿論定基の母は恩愛の涙を流したことでは有ろうが、これを塞《ふさ》ぎ遮ろうとするような人では無く、却《かえ》って其|背影《うしろかげ》に合掌したことであったろう。棄恩入無為、真実報恩者の偈《げ》は、定基の※[#「匈/月」、945−上−22]の中《う
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