と》で好く思われる筈は無い、双方の古疵《ふるきず》を知っている一《いつ》の他人であるからである。又仲直りが出来ずに終れば、もとより口をきいた甲斐もないのであるからである。しかし親類合のことであって見ると、又別である。が、匡衡も定基も血の気の多い、覇気満々の年頃ではあり、双方とも学問はあり才器はあり、かりそめの雑談を仕合っても互に負けては居ぬ頃合であるから、斯様《こう》いう談《はなし》などは、好い結果を生じそうにないのが自然であった。然し双方とも幸に愚劣な高慢的な人で無かったから、何等の後の語り草になるほどのことも無くて済んでしまったが、互の感情は※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]離《けいり》し、そして匡衡は匡衡、定基は定基で、各々|峭立《しょうりつ》して疎遠になるに終ったことだったろう。察するに一方は、路花墻柳《ろかしょうりゅう》の美に目を奪われるの甲斐無きことをあげて、修身斉家の大切なことを、それとなく諷《ふう》したに違いない。それに対し反対の仕ようは無いから、一方は黙っていたに違いない。此の黙っているというのは誠に張合の無い困ったことだから、又更に一方は大江の家が儒を以て立っているのだから、家の内の斉《ととの》わないで、妻を去るに至るの何のということは、よくよくの事でなければ、一家一門に取って取分け世間の非難を被って、非常に不利であることを云いもしたろう。これに対しても一方は又黙っていたろう。七出《しちしゅつ》の目《もく》に就いても言議に及んだことであろう。七出というのは、子無きが一、淫佚《いんいつ》が二、舅姑《きゅうこ》に事《つか》えざるが三、口舌《くぜつ》多きが四、盗窃が五、妬忌《とき》が六、悪疾《あくしつ》が七である。これに対しては定基の方からは、口舌、妬忌の二条を挙げて兎角を云うことも出来るわけだが、定基今差当って必ずしも妻を出そうと主張しているのでも無いから、やはり何も云わず黙っていたろう。何を云っても黙って居られる。自分も妻の右衛門同様、相手にされずに黙過されるに至っては匡衡も堪《こら》えきれなくなったろう。遂に力寿が非常に美《よ》い女だということが定基|耽溺《たんでき》の基だというのに考えが触れて、美色ということに鉾《ほこ》が向いたろう。妲己《だっき》や褒※[#「女+以」、第3水準1−15−79]《ほうじ》のような妖怪《ばけもの》くさい恐ろしい美人を譬《たと》えに引くのも大袈裟《おおげさ》だが、色を貪《むさぼ》るという語に縁の有るところがら、楚王が陳を討破って後に夏姫《かき》を納《い》れんとした時、申公《しんこう》巫臣《ふしん》が諫《いさ》めた、「色を貪るを淫と為す、淫を大罰と為す」と云ったのを思い出して、色を貪るのを愚《ぐ》なことだと云いもしたろう。貪色《たんしょく》の二字は実に女の美《よ》いのを愛《め》ずる者にはピンと響かずには居ない語だ。夏姫というのは下らない女ではあったが、大層美い女だったには疑無い。荘王は巫臣の諫を容れて何事も無く済んだが、巫臣が不祥の女だと云った如く、到るところに不幸を播《ま》いた女であった。夏姫に力寿を比したでも何でも無かったろうが、貪色というが如き一語は定基には強く響いたことだろう。全く色を貪って居たには違無いのだから。すべて人は何様いう強《きつ》いことを言われても、急所に触れないのは捨てても置けるものであるが、たまたま逆鱗《げきりん》即ち急所に触れることを言われると腹を立てるものである。グッと反対心敵対心の火炎《ほのお》を挙げるものである。ここまでは好くない顔はしていても、別に逆らうでもなく、聞流しに聞いていた定基も、ここに至って爆発した。一ツは此頃始終足の裏に踏付けた飯粒のような古女房《ふるにょうぼう》を、何様しようか何様しようかと思って内々は問題にしていたせいでもあったろう、又一ツには譬《たと》えば絹の糸の結ばれて解き兼ねるようになっているのを如何に処理しようかと問題にして惑って居る時、好意ではあるにしても傍《そば》より急に其一端を強く引かれて愈々解き難くなったので、ええ面倒ナ切って終え、と剪刀《はさみ》を取出す気になるような、腹の中で決断がついて終ったせいもあったろう。定基は突然として、家にも似合わず、如是因《にょぜいん》、如是縁《にょぜえん》、如是因、如是縁、と繰返して謂《い》って、如何にしても縁というものは是非の無いものと見えまする、聖人賢人でも気に入らぬ妻は離別された先蹤《せんしょう》さえござる、まして我等は、と云って、背筋を立てた。匡衡は、ヤ、と云って聊《いささ》か身を退《ひ》いた。定基は幾月か扱っていた問題だったから、自然と後が口を衝《つ》いて出て来た。檀弓《だんぐう》に見えて居る通り、子上《しじょう》の母死して喪《そう》せずの条によれば、孔子《こうし
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