は無い、差当りだけでも、如何にも御もっともと、降伏せざるを得ないところであった。
ところが然様はいかなかった。定基に取っては力寿のかわゆさが骨身に徹していたのである。イヤ、骨身に徹するどころではない、魂魄《たましい》なども疾《とっ》くに飛出して終《しま》って、力寿の懐中《ふところ》の奥深くに潜《もぐ》り込んで居たのである。妻は既に妻ではないのであった、袖の上の飛花、脚の下の落葉ほどにも無いものであったのである。妻に深刻な眼で恨まれたこともあったろうが、それは籬《まがき》の外の蛍ぐらいにしか見えなかったであろう。母に慈愛のまなざしで諭されたことも有ったろうが、それも勿体ないが雲辺《うんぺん》の禽《とり》の影、暫時《しばし》のほどしか心には留《とど》まらなかったのであったろう。如何に歌人でも才女でも、常識の円満に発達した、中々しっかり者の赤染右衛門でもが、高が従兄弟の妻である。そんなものが兎や角言ったとて、定基の耳には頭《てん》から入らなかったのであろう。別に抗弁するのでも無ければ、駁撃《ばくげき》するというでも無く、樹間の蝉声《せんせい》、聴き来って意に入るもの無し、という調子にあしらって終《しま》った。右衛門も腕の力を暖簾《のれん》にごまかされたようになっては、流石《さすが》にあれだけの器量のある女だから、やっきとなって色々にかき口説いたろうが、人間には生れついて性格技能のほかに、丈の高さというものがあるのだから、定基の馬鹿に丈の高いのには、右衛門の手が届きかねたのであろう、何の手応えも生じかねたのである。世の中には何も出来ないで丈ばかり高いものがあるが、それは戦乱の世なら萱《かや》や薄《すすき》のように芟《か》り倒されるばかり、平和の世なら自分から志願して狂人《きちがい》になる位が結局《おち》で、社会の難物たるに止《とどま》るものだが、定基は蓋《けだ》し丈の高い人だったろう。そこで右衛門は自尊心や自重心を傷つけられたに過ぎぬ結果になって、甚だ面白く無く、手持無沙汰になって、定基の妻や母にも面目無く、いささか器量を下げて、腹の中は甚だ面白からず、何様《どう》ぞ宜く御考えなされまして、という位を定基に言って引退《ひきさが》るよりほか無くなった。此処で何様いう風に右衛門が巧みに訴え、上手に弁じ、手強《てづよ》く筋を通して物語ったかは、一寸書き現わしたくもあるところだが、負けた相撲の手さばきを詳しく説くのもコケなことだから省いて置く。
定基の方は、好かない煙が鼻の先を通った程の事で済ませて了ったが、収まらないのは右衛門の腹の中だった。右衛門に取って直接に苦痛が有るの無いのということでは無いが、自分の思ったことが何の手応えも無く、風の中へ少しの灰を撒《ま》いたように消えて終ったというようなことは、誰に取っても口惜《くや》しいものである。まして相当の自負心のあるものには、自分が少しの打撃を蒙《こうむ》ったよりも忌わしい厭《いと》わしい感じを生じ勝のものである。それに加えて、相互の間に敬愛こそは有れ、憎悪も嫌悪もあるべき筈は無い自分に対してさえ、然様《そう》いう軽視|若《もし》くは蔑視《べっし》を与える如き男が、今は嫌厭《けんえん》から進んで憎悪又は虐待をさえ与えて居る其妻に対しては、なまじ横合からその妻に同情して其夫を非難するような気味の言を聞かされては、愈々《いよいよ》其妻に対して厭悪《えんお》の情を増し虐待の状を増すことであろうと思うと、其妻に対しても気の毒で堪《たま》らぬ上に、其男の憎らしさが込みあげて来てならぬ。吾《わ》が心の平衡が保てぬというほどでは無いが、硬粥《かたがゆ》が煮えるときにブツブツと小さな泡が立っては消え、消えては復《また》立つというような、取留めのない平らかならぬものが腹中に間断なく起滅するのを免れなかったことだったろう。そこで右衛門は遂に夫の匡衡に委曲を語って、定基の近状の良くないことを云い、其妻のあわれなことを告げ、何とかしてやって欲しいことを訴えた。男は男で、他《ひと》の斯様《こん》なことには取合いたがらぬものである。匡衡は一応はただ其儘《そのまま》に聞流そうとした。しかし右衛門は巧みに物語った。匡衡はここで取合わずに過して了えば、さも自分も定基と同じような場合にあっては吾が妻に対して冷酷である男のように、自分の妻から看做《みな》さるるであろうかのように感じずには居られなかったであったろう。そこで定基に対してよりは、自分の妻に対しての感じから動き出して、よし、それでは折を見て定基に話ししよう、ということになった。匡衡と右衛門との間は実に仲が好かったのであった。
男と女との間の※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]《そむ》きあったところへ口を出すほど危険なことは無い。もし其男女の仲が直れば、後《あ
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