徨《ほうこう》して、道心の帰趨《きすう》を抑えた後に、漸《ようや》く暮年になって世を遁《のが》れ、仏に入ったとは異なって、別に一段の運命機縁にあやつられたものであった。定基は家柄なり、性分なりで、もとより学問文章に親んで、其の鋭い資質のまにまに日に日に進歩して居たが、豪快な気象もあった人のこととて合間合間には田猟馳聘《でんりょうちへい》をも事として鬱懐《うつかい》を開いて喜びとしていた。斯様《こう》いう人だったので、若《も》し其儘《そのまま》に歳月を経て世に在ったなら、其の世に老い事に練れるに従って国家有用の材となって、おのずから出世栄達もした事だったろうが、好い松の樹|檜《ひ》の樹も兎角に何かの縁で心《しん》が折られたり止められたりして、そして十二分の発達をせずに異様なものになって終うのが世の常である。定基は図らずも三河の赤坂の長《おさ》の許の力寿という美しい女に出会った。長というのは駅《うまや》の長で、駅館を主《つかさ》どるものが即ち長である。其の土地の長者が駅館を主どり、駅館は官人や身分あるものを宿泊休憩せしめて旅の便宜《びんぎ》を半公的に与える制度から出来たものである。何時からとも無く、自然の成りゆきで駅の長は女となり、其長の下には美女が其家の娘分のようになっていて、泊る貴人《きにん》等の世話をやくような習慣になったものである。それでずっと後になっては、何処《どこ》其処《そこ》の長が家といえば、娼家《しょうか》というほどの意味にさえなった位であるが、初めは然程《さほど》に堕落したものでは無かったから、長の家の女の腹に生れて立派な者になった人々も歴史に数々見えている。力寿という名は宇治拾遺などには見えず、後の源平時代くさくてやや疑わしいが、まるで想像から生み出されたとも思えぬから、まず力寿として置くが、何にせよこれが定基には前世因縁とも云うものであったか素晴らしく美しい可愛《かわゆ》いものに見えて、それこそ心魂を蕩尽《とうじん》されて終ったのである。蓋《けだ》し又実際に佳《よ》い女でもあったのであろう。そこで三河の守であるもの、定基は力寿を手に入れた。力寿も身の果報である、赤坂の長の女《むすめ》が三河守に思いかしずかれるのであるから、誠実を以て定基に仕えたことだったろう。
これだけの事だったらば、それで何事も無い、当時の一艶話で済んだのであろうが、其時既に定基には定まった妻があったのであって、其妻が徳川時代の分限者《ぶげんしゃ》の洒落《しゃれ》れた女房《にょうぼ》のように、わたしゃ此の家の床柱、瓶花《はな》は勝手にささしゃんせ、と澄ましかえって居てくれたなら論は無かったのだが、然様《そう》はいかなかった。一体女というものほど太平の恩沢に狎《なら》されて増長するものは無く、又|嶮《けわ》しい世になれば、忽《たちま》ち縮まって小さくなる憐れなもので、少し面倒な時になると、江戸褄《えどづま》も糸瓜《へちま》も有りはしない、モンペイはいて。バケツ提げて、ヒョタコラ姿の気息《いき》ゼイゼイ、御いたわしの御風情やと云いたい様になるのであるが、天日とこしえに麗わしくして四海波穏やかなる時には、鬚眉《しゅび》の男子皆御前に平伏して御機嫌を取結ぶので、朽木形の几帳《きちょう》の前には十二一重の御めし、何やら知らぬびらしゃらした御なりで端然《たんねん》としていたまうから、野郎共皆ウヘーとなって恐入り奉る。平安朝は丁度太平の満潮、まして此頃は賢女《けんじょ》才媛《さいえん》輩出時代で、紫式部やら海老茶式部、清少納言やら金時大納言など、すばらしい女が赫奕《かくえき》として、やらん、からん、なん、かん、はべる、すべるで、女性《にょしょう》尊重仕るべく、一切異議|申間敷《もおすまじく》候と抑えられていた代《よ》であったから、定基の妻は中々納まっては居なかった、瞋恚《しんい》の火《ほ》むらで焼いたことであったろう。いや、むずかしくも亦おそろしく焼き立てたことであったろう。ところが、火の傍へ寄れば少くとも髭《ひげ》は焼かれるから、誰しも御免|蒙《こうむ》って疎み遠ざかる。此の方を疎みて遠ざかれば、余分に彼方を親み睦《むつ》ぶようになる。彼方に親しみ、此方に遠ざかれば、此方は愈々《いよいよ》火の手をあげる。愈々逃げる、愈々燃えさかる。不動尊の背負《しょ》って居らるる伽婁羅炎《かるらえん》という火は魔が逃げれば逃げるだけ其|火※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》が伸びて何処までも追駈けて降伏《ごうぶく》させるというが、嫉妬《しっと》の火もまた追駈ける性質があるから、鬚髭《ひげ》ぐらい焼かれる間はましもだが、背中へ追いかかって来て、身柱大椎《ちりけだいつい》へ火を吹付けるようにやられては、灸《きゅう》を据えられる訳では無いし、向直っ
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